数日空けると数字が落ちるので、内容が無くても出している方へ/疲れているのは、同じ作業を毎月やり直しているからである

SNSに疲れたのは、借りた土地に積み上げ続けているからである

通知を開くのが億劫になっている。投稿しようとして、下書きのまま閉じる日が増えた。数日空けると数字が落ちるので、内容が無くても何か出しておく。見るのをやめれば楽になると分かっているのに、やめると置いていかれる感覚がある。

疲れの原因は、使いすぎとして案内されがちです。見ている時間が長い、通知が多い、情報を浴びすぎている。どれも観測できる事実で、実際に時間を半分にすれば数週間は軽くなります。軽くなるので、原因はそこで確定したように見えます。そして同じ重さが戻ってきたとき、次に疑われるのは処方ではなく自分の自制心のほうです。

戻ってくる部分の疲れは、処理した量から来ていません。同じ作業を毎月やり直していることから来ています。借りた土地の上では、積み上げたものが自動的に減衰します。休むと後退するのは、休んだからではなく、そもそも保存されていないからです。

自制心は、ここでは追いません。追うのは、投じた労力が翌月に残るかどうかを、置いた場所のほうが決めているという条件です。条件の側は、意識を向けても動きません。動かすなら、置く場所そのものを変えることになります。

この条件を入れると、問う量が入れ替わります。戻ってくる部分に効いているのは処理量ではなく、維持の費用が下がらないことのほうです。入ってくる側は、絞れば減ります。維持の費用は、絞っても減りません。出す側への要求が、入ってくる量とは無関係に発生しているからです。この二つは体感として似ていて、次にやることだけが正反対になります。

したがって、この記事に使用時間を減らす手順は出てきません。時間の上限、通知オフ、断つ日は、いずれも効く場所を持っています。ただし効いている先は入ってくる刺激であって、出し続けないと落ちるという条件ではありません。やめるべきかどうかも、ここでは決まりません。その判断そのものの立て方はSNSをやめたい人へにあり、この記事が置くのは判断の手前にある発生源です。積み上がるものをどの場所へ移すかという媒体の比較も扱いません。選ぶ対象は媒体ではなく、置くものの性質だからです。

三つの疲れのうち、入ってくる量を絞れば減るのは、反応の疲れと比較の疲れです。出し続けないと落ちるという条件だけは、使用時間を半分にしても同じ強さで残ります。残る一つに効くのは、積み上がるものを別の場所へ置くことです。置き場を変える操作なので、量の調整と違って、その日のうちには軽くなりません。効き始めるのは、やり直しの回数が減った月からです。

一語に畳まれている三つの疲れは、機序が別々である

少なくとも三つの別の疲れが、一つの語に畳まれています。

一つ目は、反応の疲れです。通知が入るたびに注意が切り替わり、返すかどうかの判断が発生する。判断そのものは小さくても、回数が多いので合計が大きくなります。

二つ目は、更新の疲れです。出し続けないと落ちる、という感覚があり、内容の有無にかかわらず投稿が要求される。これは反応の量とは無関係に発生します。

三つ目は、比較の疲れです。自分の数字と他人の数字が同じ画面に並んでいて、見るたびに順位が更新される。見ているだけで発生するので、投稿していなくても消えません。

外から見るかぎり、三つは区別できません。どれも「SNSを見ると消耗する」という一つの症状として現れます。けれども内側の機序は違います。一つ目は注意の分割、二つ目は減衰への対応、三つ目は評価の常時可視化です。

三つに分けても、疲れているという事実は動きません。そう読めます。ただ、対処を当てた後に残るものが違います。通知を切った翌週、鳴るたびに引き戻される感覚は消えています。消えた後に手元に残っているのは、更新しないと落ちるという条件のほうです。この条件は通知の設定と無関係に動いているので、切っても位置が変わりません。他人の投稿を見ないようにした場合も同じで、比べて落ち込む時間は減りますが、更新の負荷はそのまま残ります。

三つは同時に起きます。そして順序があります。反応の疲れが増えると投稿の間隔が空き、間隔が空くと数字が落ち、落ちると比較が痛くなる。後ろの疲れほど、原因が自分の性格の側にあるように見えます。

どれが主かは、止めてみると分かります。一週間、見るのも出すのも完全に止めたとき、何が最初に戻ってくるかを見ます。一つ目が主なら、数日で楽になり、それ以上は変わりません。二つ目が主なら、楽になった後に「戻ったときが怖い」という別の負荷が出ます。三つ目が主なら、止めているあいだも他人の動きが気になり続けます。三つは、止めたときの反応の出方で分かれます。

三つの比率は、使い方でも変わります。見る側に寄っている人は一つ目と三つ目が主になり、出す側に寄っている人は二つ目が重くなります。同じ場所を使っていても、疲れている中身が違います。だから他人の対処法がそのまま効かないことは珍しくなく、効かなかったことは相性の問題ではありません。

「SNS疲れ」という一語は、三つを一つにしたうえで、原因を使用量に置きます。量の問題として扱われると、処方は「減らす」に一本化されます。そして減らしても二つ目が消えないので、効かなかった経験だけが積み上がります。効かなかったことが、意志が足りない証拠として読まれてしまいます。

六つの対処は、すべて入ってくる側を絞っている

疲れに当てられる対処は六つあり、すべて入ってくる側を絞る操作です。

利用時間の上限を決める。通知をオフにする。合わない発信者をミュートする。SNSは無くても困らないものだと認識する。見る時間を読書などの別の行動に置き換える。週に一日、一切開かない日を作り、その日数を増やしていく。

六つには、それぞれ効く場面があります。とくに通知のオフは、注意の切り替え回数を直接減らすので、一つ目の疲れに対しては即効性があります。「無くても困らない」という位置づけの変更も、判断の優先順位を下げる操作として正確です。

効いている場所を並べると、六つが同じ一点へ集まります。時間の上限、通知、ミュート、置き換え、断つ日。これらはすべて、入ってくる刺激の側を絞っています。受け取る量が減れば、処理の負荷は減ります。設計として正しい方向です。

ただし、出す側の要求には一つも触れていません。見る時間をゼロにしても、「更新しないと落ちる」という条件はそのまま残ります。むしろ、見ないまま更新だけ続ける状態になると、返ってくる反応も見えないので、負荷だけが残ります。

減らせば実際に楽になるのだから原因は量ではないか、という反論は成り立ちます。楽になるのは本当です。問題は、戻ることのほうです。使用時間を半分にして数週間過ごし、その後また元の疲れが出てくる、という経験は珍しくありません。量を減らして一時的に軽くなり、その後戻るなら、量は増幅する要因であって発生源ではありません。

六つが効かないという話ではありません。一つ目と三つ目の疲れは、実際にこの六つの射程内にあります。外にあるのは二つ目——更新の疲れ——だけで、争点はその一つに絞られます。

「無くても困らないものだと認識する」という処方には、条件が付きます。趣味として使っているなら、この認識は正確です。発信を経路として使っている場合には、事実として無くては困る状態にあります。困らないと思い込む操作は、そこが経路になっているという事実を消すだけで、代わりの経路を作りません。

六つに共通しているのは、疲れを入力の関数として扱っているという点です。入力を減らせば出力も減る、という形をしています。この形が成り立つのは、疲れが処理量から来ている場合だけです。

この処方で変わらなかったとき、疑いは処方ではなく実行者の側へ移ります。「一日一時間という約束すら守れないのだから、自分は自制心が弱い」という結論が出ます。処方が正しいことが、かえって原因の取り違えを強めます。

休むと後退するのは、休んだからではない

発信を止めたときに反応が落ちるのは、離れたことへの罰ではありません。積み上げたものが最初から積み上がっていなかったことが、そこで見えるだけです。

発信を数週間止めると、戻ってきたときに反応が落ちています。これは「離れた罰」として読まれがちです。見放された、忘れられた、勢いを失った——そういう言葉で説明されます。

土地の側から見ると、別の見え方になります。投稿は、置いた場所に留まりません。時間が経つほど表示される機会が減り、新しいものが上に積まれ、古いものは事実上参照されなくなります。つまり、積み上げたものは自動的に減っていきます。

これは怠慢への罰ではなく、保管の仕様です。その場所は、蓄積を保存する設計になっていません。表示する順序を決めるのは場の側であり、決め方は公開されず、しかも随時変わります。アルゴリズムという語で呼ばれているものの実体は、この決め方の総称です。

もう一つ、行動が止まらなくなる機序があります。変動比率強化——反応に対する見返りが、決まった回数ごとではなく不規則に返る強化の型を指します(Ferster & Skinner, Schedules of Reinforcement, Appleton-Century-Crofts, 1957)。この型で身についた行動は、見返りが止まっても長く消えません。十回に一回だけ大きく反応が返る場所では、返らなかった九回が「次は返るかもしれない」の材料として働くからです。

これは依存という語で語られることが多いのですが、性質の記述としては足りません。不規則な見返りに対して行動が持続するのは、生き物として正常な反応です。異常なのは反応の側ではなく、不規則さが設計として作られている側にあります。同じ機序を、施策として設計する立場から扱ったものはリピート戦略の設計にあります。あちらが扱うのは仕掛ける側、ここで扱うのは置かれる側です。

減衰すると言っても、良い投稿が後から掘り起こされて伸びることはあります。実際に起きます。そして、それが起きるかどうかを決めているのも場の側です。掘り起こされる可能性があることは、蓄積が保存されていることの証拠になりません。参照されるかどうかの決定権が自分の手元にないという条件は、そのままだからです。

減衰と不規則な見返りが組み合わさると、「やめられないのに積み上がらない」という状態が安定します。続ける動機は保たれるのに、続けた結果は残らない。この二つが同時に成り立つ場所は、疲れが蓄積する条件を満たしています。

借りた土地の対価は、更新を続けることで支払われている

無料で使えているように見えて、賃料は支払われています。金銭ではなく、注意と、更新の継続という形で。

無料で使わせてもらっているのだから文句を言う筋合いはない、という指摘は正しいので、正面から扱います。

場の側が売っているのは広告の表示機会であり、その在庫は、人がそこに留まっている時間から作られます。だから設計は、留まる時間が最大になる方向へ最適化されます。

発信する側は、その在庫を作っている側に回っています。投稿は、場の在庫を増やす材料です。そして材料を出し続けるかぎり露出が配分され、止めれば配分が止まる。これは搾取という道徳の話ではなく、契約の条件です。賃料を金銭で払っていないので、更新の継続という形で払っています。

この条件が不当だという話ではありません。場は場の目的のために設計されていて、その目的は公開されています。問題が起きるのは、借りている側が、そこを自分の蓄積の置き場だと思っているときだけです。借りていると分かって借りているなら、条件は単なる前提になります。

この構造は、運営している側の意図の善悪とも関係がありません。広告で収益を得る設計を選んだ時点で、滞在時間を最大化する方向への最適化は自動的に働きます。誰かがそう決めたというより、収益の形が最適化の向きを決めています。

土地を借りること自体も合理的です。自分の場所には、最初は誰も来ません。人がいる場所に出ていくことは、入口の確保として正しい判断です。分かれるのは、そこに何を置くかの側です。

場の側も良い発信者には長く続けてほしいはずだから利害は一致している、という見方は、範囲を区切れば当たります。滞在時間を作る発信は、場にとっても価値があるので、露出は配分されます。一致しないのは、その発信者が場の外へ人を連れ出そうとするときです。外部への案内を含む投稿は表示が抑えられている、という話は発信者のあいだで定着しています。ただし、それを判定する材料はこちらの手元にありません。何をどの順で並べるかは公表されていないので、抑えられたのか、単に選ばれなかったのかを分ける手がかりが無いからです。それでも向きは決まります。滞在時間から収益を得る設計のもとで、人を場の外へ送り出す投稿が優遇される理由は、収益の側からは出てこないからです。利害は、留まらせる方向では一致し、持ち出す方向では対立します。

この対価には、金銭の賃料と違う性質が一つあります。支払う量を自分で決められません。どれだけ更新すれば足りるかは示されておらず、しかも他の借り手の更新量によって必要量が動きます。金額の分からない賃料を、周りを見ながら払い続けている状態です。

契約の条件が明文で提示されないので、更新の要求は「自分の意欲の問題」として体感されます。出さなくなったら落ちた、という事実は、意欲が落ちたから結果も落ちた、という因果に読み替えられます。条件が見えないと、条件の帰結は性格の帰結に見えます。

維持の費用は、続けるほど下がらない

普通の仕事は、続けるほど一件あたりの手数が減ります。この場所では減りません。それが、この疲れの発生源です。

技能でも設備でも、同じことを繰り返すと単位あたりの費用は下がっていきます。手順が固まり、判断が減り、以前の成果がそのまま次の土台になるからです。費用が下がるという性質があるからこそ、続けることに意味が生まれます。

減衰する場所では、この性質が成立しません。先月の投稿は、今月の露出を支えていません。支えていないので、今月も先月と同じだけ出す必要があります。三年続けても、必要な投稿数は初月と変わりません。

だから、疲れの量は作業の総量では説明できません。説明するのは、やり直しの回数のほうです。同じ二時間でも、積み上がる場所での二時間は次回の土台になり、減衰する場所での二時間は今回だけで終わります。同じ労力が、片方では資産になり、もう片方では消費になります。

慣れれば投稿の負荷そのものは下がるのではないか。この見込みは当たっていて、一本あたりを書く時間は実際に短くなります。下がらないのは、必要な本数のほうです。そして疲れているのは、一本の重さではなく、止められないという条件のほうです。

例外もあります。その場所で名前が広く知られた状態になると、減衰の速度が落ちることがあります。ただしその状態も、場の側の設計変更で一夜にして変わります。費用が下がったのではなく、下がったように見える期間が続いているだけです。

続けるほど費用が下がるという性質は、事業の判断の前提にも入っています。いま赤字でも続ける、という判断が成り立つのは、続けた先で単位費用が下がると見込めるからです。減衰する場所では、その見込みが立ちません。それでも同じ判断の形を当てると、続ける理由が「これまで続けてきたから」だけになります。

費用が下がらないことは、成果が出ないことを意味しません。出た成果が次を支えないというだけです。この二つは体感として区別しにくく、反応が返っているあいだは、積み上がっているように感じられます。反応が返ることと、次回の土台になることは別で、前者だけが目に見えます。

この構造には、時間の経過とともに効いてくる副作用があります。やり直しの反復は、成果として記録されません。先月と同じだけ出して、先月と同じ位置にいる状態は、外からは「何もしていない」ように見えます。実際には最も労力を使っている期間なのに、そこで積み上がったものを人に示すことができません。そして自分でも、示せないものは無かったことにします。

積み上がるものと、流れるものを別の場所に置く

発信で生み出されるものは性質の違う二種類に分かれ、下がらないものを下がる場所に置いたときに疲れが発生します。

一つは、流れるものです。その日の反応、話題への言及、短い所感。これらは時間とともに価値が下がるので、流れる場所に置いて構いません。むしろ流れる場所のほうが適しています。

もう一つは、積み上がるものです。自分が繰り返し使う定義、考え方の筋道、実際に起きたことの記録、そして連絡が取れる相手そのもの。これらは時間が経っても価値が下がらないか、むしろ上がります。

数え方は一つです。「その場所が明日から使えなくなったとき、何が残るか」を数えます。残るものが、自分の側に積み上がっているものです。残らないものは、借りていたものです。

投稿の内容は手元にも残っているのだから消えるわけではない、という見方には根拠があります。内容は残ります。残らないのは、内容と読み手の間の経路のほうです。文章のファイルが手元にあっても、それを読む人へ届ける手段が場の側にしかないなら、届く可能性は場の判断に依存したままです。積み上がっているかどうかを決めるのは、保管しているものの量ではなく、届ける経路を自分が持っているかどうかです。

すべてを自分の側に移す必要はありません。流れるものは流れる場所にあってよく、移す対象は、その場所が使えなくなったときに何が残るかという判定で残ったものだけです。全部を移そうとすると作業量が跳ね上がり、しかも移す価値のないものが大半を占めます。

この判定は、価値の高低も測っていません。流れるものが軽くて、積み上がるものが重い、ということではありません。その日の反応を返す投稿が、関係を保つうえで決定的に働くこともあります。測っているのは、時間が経ったときに残るかどうかという一点だけです。

分けるという操作は、一度で終わるものでもありません。新しく書くものが出てくるたびに、どちらに置くかの判定が発生します。ただしこの判定は、慣れると数秒で終わります。判定に迷うのは、一本の中に流れるものと積み上がるものが混ざっているときで、その場合は分けて書くほうが両方とも読みやすくなります。

分けた瞬間、発信の目的が二つに分かれます。流れる場所での発信は「見つけられるため」、自分の場所での蓄積は「積み上げるため」。目的が違うので、同じ投稿で両方を満たそうとすると、どちらも中途半端になります。分けるということは、同じ労力を二つに配分し直すということでもあります。

比較が疲れになるのは、順位が常に表示されているから

比較そのものは避けられません。痛くなるのは、比較の材料が常時、他人と同じ単位で表示されているときだけです。

人は自分の位置を、周囲との相対で測ります。ここで働いているのは、順応水準という機序です。人は絶対的な水準ではなく、直前に慣れた水準を基準にして良し悪しを判断します(Brickman & Campbell, “Hedonic Relativism and Planning the Good Society,” Adaptation-Level Theory, Academic Press, 1971)。基準は、達成するたびに新しい位置へ移動します。

だから、数字が伸びても満足は積み上がりません。千人に届いたときの高揚は、千人が基準になった時点で消えます。そして次は二千人が目標になります。上がり続けている状態と、満たされない状態は、両立します。

ここに、数値の常時可視性が乗ります。他人の数字が同じ画面に並んでいるので、基準の更新が自分の達成だけで起きなくなります。自分が動かなくても、他人が動けば相対的な位置は変わるので、何もしていない時間にも基準が動きます。

これは数字を見ないことで解決する、という話ではありません。見ないようにすると、今度は自分の位置が分からないという別の不安が出ます。必要なのは、見ないことではなく、見る数字を選び直すことです。

他人と比べないようにするという心構えで比較の疲れに対処できるのではないか、という道は、効きにくい部類です。比較は判断の前段で自動的に起きるので、意識して止める対象になりにくいからです。効くのは、比較の材料が目に入る頻度と、材料の種類を変える側です。どの数字を自分の指標として採用するかは、心構えではなく設計の問題として扱えます。

材料の種類には決定的な差があります。フォロワー数のように場が全員に同じ形式で表示している数字は、そのまま横に並べられます。一方、たとえば「今月どれだけ深く話せる相手が増えたか」は、他人の値が見えないので並べようがありません。比較が痛くなるのは数字が大きいか小さいかではなく、他人の値が同じ単位で表示されているかどうかで決まります。

順応が起きること自体は不具合ではありません。同じ刺激に慣れる働きがあるから、人は新しい状況へ資源を回せます。問題になるのは、慣れる速さより先に、次の基準が外から供給されるときだけです。

数値が公開されている場所では、成果の報告そのものが素材になります。伸びた人が伸びたことを語り、その語りがまた基準を押し上げます。基準の上昇が、参加者全員によって共同で生産される構造になっています。

測る対象を、使った量から、休んだときに減るものへ置き換える

測るべきは入力の量ではなく、一週間止めたときに何がどれだけ減るかです。

よく測られているのは、使用時間です。これは入力の量であって、疲れの発生源ではありませんでした。

減るものが「その場所での表示回数」だけなら、そこは入口として機能しています。減るものに「連絡が取れる相手の数」や「積み上がった文章の本数」が含まれていないなら、そこは保管場所ではありません。この測定は一週間で終わり、結果は数字で残ります。

この数字が意味を持つのは、比較対象があるときです。自分の場所に置いた文章は、一週間止めても本数が減りません。同じ期間で、片方は減り、片方は減らない。置いたものが減衰するかどうかという性質の違いが、実測で出ます。

減らないことが、そのまま優れていることを意味するわけではありません。自分の場所に置いた文章は、放置すれば読まれる回数がゼロのまま増えません。減衰しない代わりに、最初は流入もない。だから入口が要ります。

結局どちらも必要なら分けても作業量は変わらないのではないか、という疑問には、総量ではなく配分の根拠が変わる、と答えられます。どちらに何を置くかが決まっていれば、投稿するたびに「これはどこに置くべきか」という判断が発生しなくなります。判断の回数が減ることは、疲れの一つ目に直接効きます。

この測定は、どちらが優れているかを判定するために行うのでもありません。判定するのは、いま自分がどちらを蓄積の置き場だと思って労力を投じているか、という一点です。思っている場所と、実際に残る場所がずれているときに、疲れが発生していました。ずれの有無だけが分かればよいので、測定は一度で足ります。

測定を一度で済ませられるのは、見ているのが量ではなく性質だからです。減衰するかしないかは、一週間でも三か月でも同じ答えが出ます。量を測るなら期間を揃える必要がありますが、性質を測るなら期間の長さは結論を変えません。だからこの測定は、忙しい時期に始めても構いません。

測る対象を変えると、短期の数字は悪化して見えやすくなります。場の側での表示回数を追わなくなるので、その数字は下がります。下がった数字を見て元へ戻る、という揺り戻しが起きやすいのは、置き換えた直後の数週間です。そして、この期間の長さは自分では決められません。新しい場所に人が集まる速さは、こちらの作業量ではなく、検索や紹介といった別の経路の速度に依存するからです。

やり直しの回数が減ったとき、変化は三か所に出る

見る先は、使った時間ではありません。やり直しの回数が減ったかどうかです。

第一に、投稿しなかった日に何が起きるかを見ます。

以前は、出さなかった日に「落ちる」という感覚が伴っていたはずです。その感覚が薄れているなら、更新の疲れの側が動いています。落ちる感覚は、積み上げたものが減衰する場所にだけ発生するので、蓄積が別の場所へ移った分だけ弱くなります。

第二に、数字を見る回数ではなく、見た後の行動を見ます。

数字を確認すること自体は問題になりません。測るべきは、確認した後に予定外の投稿が発生するかどうかです。数字を見て慌てて何か出す、という連鎖が起きなくなっていれば、比較の疲れは判断の外へ出ています。

第三に、その場所が使えなくなったと想定して、残るものを数えます。

これは、その場所が明日から使えなくなったときに何が残るかという判定と同じものです。一度目より数が増えているなら、積み上がる側に置いた分が増えています。増えていないなら、置き場は変わっていません。

いずれの項目も、使用時間を数えていません。並べたのは、休んだときの減り方と、数字を見た後の行動と、残るものの数です。使用量は原因ではなかったので、それが減っても、やり直しの回数が減ったことにはなりません。

やめると置いていかれる、という感覚には根拠がありました。借りた土地の上では、止めれば実際に後退します。感覚が過敏だったのではなく、そういう土地に立っていた。そして、置いていかれるという条件は、土地の側の性質なので、立つ場所を変えないかぎり意志では動きません。

削るという処方と、ここで置いたものは、どちらも「減らす」ことを勧めています。違うのは減らす対象で、片方は入ってくる量を減らし、もう片方はやり直しの回数を減らします。入ってくる量は、減らしたその日から軽くなります。やり直しの回数は、減らしても当月は何も変わりません。効き方の速さが逆なので、速いほうが先に試され、遅いほうは効果が出る前に中断されます。

次に下書きのまま閉じる日が来たとき、そこで読めるものは二つに分かれます。出せなかったという記録として読むこともできるし、その一本が減衰する側に置かれる予定だったという記録として読むこともできます。後者として読めるなら、その一本は出せなかった記録ではなく、置き場の記録です。

なお、自分の側に何を持ち、場の側に何を任せるかという分け方はレンタルサーバーの選び方が具体の判断として扱っています。連絡が取れる状態そのものを持つという発想はリスト集めの前提に、その保管と配信を分ける設計はメルマガ配信システムの選び方に、全体としてどの段が並んでいるかはマーケティングファネルの設計にあります。数字が伸びないことをどう読むかはフォロワーが増えないことは、事業の問題ではないが、遅い返りの場所で続ける条件はブログが続かないのは、返ってくる速さの差のせいが扱っています。

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