序章:プロフィールを、経歴の一覧にしていない理由
吉田颯汰(よしだ そうた)と申します。パフォーマンスコーチとして、小規模事業者と個人事業主の方を対象に、経済学・認知科学・ダイレクトレスポンスマーケティングの三つを統合した「構造的自律」の支援を行っています。事業の収益構造と、それを運用している本人の認識の構造。この二つを同時に組み替えることを仕事にしています。
以上が、肩書きとしての回答です。ただ、この回答だけでは足りない問いが一つ残ります。それは「なぜ、他の誰でもなくこの人間が、それを語っているのか」という問いです。
経歴の一覧は、この問いに答えられません。卒業年、勤務先、資格、実績の数字。それらをどれだけ並べても、答えられるのは「何をしてきたか」までであって、「なぜそれを選んだのか」には届きません。そして、あなたが誰かの話を聞くかどうかを決めるとき、実際に重みを持っているのは後者のほうです。
このページを、時系列の物語として書いている理由がここにあります。
物語という形式は、装飾ではありません。ハーバード大学ケネディスクールのマーシャル・ガンツ(Marshall Ganz)は、人を集合的な行動へと動かす語りの構造を「パブリック・ナラティブ」として定式化しました。それは、語り手個人の体験(Story of Self)、聞き手と語り手が共有している状況(Story of Us)、そしていま選べる行動(Story of Now)という三つの層から成ります。個人の体験が、共通の状況の記述を経て、はじめて他人の判断材料になる、という構造です。このページは、その構造に沿って書かれています。
ただし、物語を使う技術には、もう一つの顔があります。
セールスの世界で流通している書き方の多くは、恐怖と欲望、とりわけ独占欲を燃料にしています。手に入らなくなる、という感覚を作る。他人に取られる、という感覚を作る。判断を急がせて、考える余白を削る。それは確かに人を動かしますが、動かされた側は、自分がなぜそれを選んだのかを説明できません。判断力を一時的に下げることで成立する技術だからです。
私はその側の技術を使いません。理由は倫理的な自制ではなく、目的と噛み合わないからです。私が渡そうとしているのは「自分の事業の構造を、自分で判断できるようになる状態」です。判断力を下げる手法でその入口をくぐらせたら、渡そうとしているものと、渡し方が矛盾します。
ですので、このページは説得のために書かれていません。あなたが「この人間の言うことを聞く価値があるかどうか」を判断するための材料として書かれています。判断はあなたが行うものであり、そのために必要なのは、私がどこから来たのかという情報です。
📖 目次
第1章:2011年、私は「自称作曲家」でした
私のキャリアは、ビジネスとは対極にある場所から始まりました。音楽です。
2011年、震災の年に、音楽系の専門学校を卒業しました。肩書きは作曲家。ただし、それは自称でした。定職には就かず、稀に来る制作の依頼をこなす。それ以外の時間は、選ばれるかどうかも分からない楽曲コンペに曲を送り続ける。収入は月によって数万円の幅で上下し、翌月の見込みは立ちませんでした。
当時の私を動かしていたのは、二つの単純な文でした。
「自分の好きなこと以外はしたくない」
「組織の歯車にはなりたくない」
若さゆえの、そして無謀な、自由への渇望です。音楽が好きだから、音楽で生きていく。その情熱さえあれば道は開ける、と本気で信じていました。
けれども、実際に起きていたのは違うことでした。
コンペに曲を出します。落ちます。何が足りなかったのかは知らされません。翌週、また出します。落ちます。この繰り返しの中で、私は「どうすれば選ばれるか」を考えるようになりました。求められている曲調に寄せる。尺を合わせる。冒頭の三秒で判断されると聞いたので、冒頭を作り込む。
稀に通る依頼のほうも、内容は選べませんでした。求められたのは「明るく前向きで、万人受けするBGM」です。誰が聴くのかは知らされず、どこで使われるのかも聞かされず、修正の指示だけが返ってきます。もう少し明るく。もう少し一般的に。指示は毎回、輪郭を削る方向に働きました。
技術は、確かに上がっていきました。半年前の自分の曲を聴くと、粗さが分かるようになります。それは進歩です。
それなのに、曲を作ることが楽しくなくなっていきました。
この矛盾を、当時の私は説明できませんでした。上手くなっているのに、気が乗らない。好きなことをしているはずなのに、締切の前日に手が動かない。自分の集中力の問題だと考え、環境を変えたり、時間帯を変えたりしましたが、どれも一時的にしか効きませんでした。
いま、この現象には名前を与えることができます。動機の起点が移動していたのです。曲を作る理由が、自分の内側から、外側——依頼、要求、審査基準——へと移りました。作っているものは同じでも、それを何のために作るかの起点が入れ替わっていました。起点が外にある活動は、外からの承認が途切れた瞬間に燃料が切れます。
ただ、これは後から与えた説明です。当時の私が手にしていたのは、説明のつかない不調と、口座の残高と、「音楽が好きなのに気が乗らないのは自分の弱さだ」という誤った結論だけでした。原因を自分の側に置いているかぎり、対策も自分の側にしか作れません。私が数年かけて試したのは、すべてその範囲の中の対策でした。
第2章:私は、才能ある人たちを外から見ていました——自分も同じ枠の中にいるとは思わずに
業界を見渡すと、同じ光景が並んでいました。
圧倒的な技術を持ったクリエイターが、自分の知的な仕事を企業に渡し、驚くほど低い単価で、昼夜を問わず稼働していました。彼らを支えていたのは「好きを仕事にしている」という一点です。その一点があるかぎり、単価も労働時間も交渉の対象になりませんでした。交渉すれば「じゃあ他の人に頼む」で終わる。代わりはいくらでもいる、という状況が、実際に存在していたからです。
ある友人は「音楽活動を続けるため」と割り切って、まったく興味のない職種に就職しました。数年後に会ったとき、彼は音楽の話をしませんでした。
私はこの光景を見て、戦慄しました。そして「自分はこうはならない」と考えました。
——ここに、当時の私の見落としがあります。
私は、彼らを外から観察していました。観察できているのだから、自分はその外側にいるのだと考えていました。けれども実際には、私も同じ構造の中にいたのです。彼らは企業から来る依頼を待っていた。私はコンペの結果を待っていた。待つ相手が違うだけで、「誰かが選んでくれるまで自分の収入が決まらない」という構造は同一でした。
むしろ私のほうが不利でした。彼らには定期的な発注元があり、私にはありませんでした。私が持っていたのは「組織に属していない」という一点だけで、それは構造上の優位ではなく、単に窓口が不安定だという意味でした。
組織に属さないことは、上司からの指示や通勤からは解放してくれます。ただしその代わりに、翌月の見込みを保証する仕組みも同時に失われます。そして経済的な基盤を持たない自由は、驚くほど短い時間で反転します。
家賃の期日が近づくと、来た依頼を選べなくなる。単価も選べなくなる。納期も選べなくなる。つまり「やりたくない仕事を、安い金額で、無理な日程で引き受ける」という状態に着地する。これは、私が最も避けたかった状態そのものでした。
自由を求めて選んだ道の先で、最も不自由な受注に着地する。
この帰結は、私の意志の弱さから来たものではありませんでした。情熱の量とも関係がありませんでした。「収入の発生源を他人の選択に預けている」という構造から、論理的に導かれる結果でした。
情熱や才能は、資本主義の構造的な欠陥を超えません。この一文が、当時の私が手に入れた唯一の資産です。夢を捨てたのではなく、夢を維持し続けるための足場を求めました。ここが、私が音楽から離れてビジネスと構造の研究へ向かった転換点でした。
第3章:家電量販店の売り場で、セールスの定義が入れ替わった日
生活の基盤を作るため、そしてビジネスの実地を知るために選んだのは、家電量販店の販売員でした。スマートフォンとインターネット回線が飛び交う、競争の激しい売り場です。
最初、私はセールスという行為に忌避感を持っていました。いらないものを言葉巧みに売りつける行為であり、相手からお金を取り上げる行為だ、という偏見です。音楽をやっていた人間が、最も嫌う類の仕事に見えました。
その認識は、現場で覆りました。
あるとき、PC売り場で立ち止まっている若い男性に声をかけました。話を聞くと、一人暮らしを始めるための資金を貯めている最中で、ゲームをするための高性能なPCが欲しいが、予算が届かないので諦めかけている、とのことでした。
私は値引きの話をしませんでした。代わりに、彼の通信環境とスマートフォンの契約状況を聞きました。使っていない回線と、実態に合わないプランがありました。固定費全体を組み替える提案をした結果、彼は月々の支払いを下げながら、目当てのPCを手に入れ、貯金のペースも維持できる状態になりました。
契約書にサインをしたとき、彼の顔にあったのは「売りつけられた顔」ではありませんでした。目当てのものが手に入った、という顔と、ありがとうございます、という言葉でした。
この瞬間に、私の中で定義が入れ替わりました。
顧客が欲しいのは、商品そのものではありません。その商品を手に入れた先にある状態のほうです。彼が求めていたのはPCという物体ではなく、「一人暮らしを始めて、好きなゲームができて、しかも貯金が減らない」という状態でした。PCは、その状態に到達するための部品にすぎません。
そしてセールスとは、売り込みではなく、相手がまだ言語化できていない課題を発見して、到達したい状態への経路を提示する行為でした。相手が自分では組み合わせられなかった選択肢を、こちらが持っている情報で組み合わせて見せます。それは価値を奪う行為ではなく、交換する行為です。
この理解を得てから、私の売り方は変わりました。ノルマのために売るのをやめ、目の前の相手にとって最も損の少ない組み合わせを提示することだけを行うようにしました。押しの強い勧誘を一切しないまま、成約率は上がりました。指名で相談を受けるようになり、接客のお礼として差し入れをいただくこともありました。
そして、この一連の流れ——信頼を集め、価値を提供し、解決策を提案する——が、対面でなくても成立することに気づきました。画面の向こうにいるのは、データや数字ではなく、悩みと希望を持った個人だからです。同じプロセスを、テクノロジーを使って再現し、自分一人が同時に対応できる人数の上限を超えて動かせるようにすること。これが、私がのちに扱うことになるダイレクトレスポンスマーケティングの原点になりました。
第4章:宇野経済学が教えたのは、私が負けていたゲームの名前でした
販売員としての数字が積み上がっても、消えない違和感がありました。
なぜ、これだけ働いて、生活の水準が変わらないのか。なぜ、成績を上げるほど、次の月の目標が上がるのか。この問いの答えを探して行き着いたのが、マルクス経済学を独自に再構成した宇野経済学(宇野弘蔵)の視座でした。
そこにあったのは、個人の意志では動かせないゲームのルールでした。
市場では多種多様な商品が取引されますが、その中で一つだけ、特殊な性質を持つ商品があります。働く人が日々売っている「労働力」です。
多くの人は「労働の成果」を売っていると考えています。しかし厳密には、売られているのは「労働力」——一定時間、働く能力を使わせる権利——のほうです。そして労働力という商品には、他の商品にない特徴があります。使用されることで、その購入価格(賃金)を上回る価値を生み出す、という特徴です。
この差額が剰余価値と呼ばれるもので、それは生産手段を所有している側に帰属します。
この構造は、二つの循環の違いとして表せます。
労働者の側は「W-G-W」の中にいます。商品(自分の労働力)を売って貨幣を得て、その貨幣で生活に必要な商品を買う。循環の終点は消費であり、次の月にはまた同じ地点から始まります。
資本の側は「G-W-G’」の中にいます。貨幣を投じて商品(生産手段や労働力)を買い、それを組み合わせて、投じた額より大きい貨幣を回収する。循環の終点は増えた貨幣であり、次の循環はより大きな地点から始まります。
この二つは、金額の大小の違いではありません。循環の形そのものが違います。前者は何周しても始点に戻り、後者は周回のたびに始点が上がります。
そして、ここに私の敗因がありました。
私は「単価を上げる」ことを考えていました。より高いコンペに出す。より高い成約を取る。それは正しい方向に見えます。しかし、それは W-G-W の中で W の値を大きくする作業であって、循環の形を変える作業ではありません。形が同じである限り、何周しても始点は同じ場所です。
フリーランスや個人事業主として独立しても、この構造は変わりません。クライアントワークに依存し、自分の時間を切り売りしているのであれば、それは「会社」という窓口から「下請け」という窓口へ移動しただけで、循環の形は労働者のままです。
私が「構造的自律」と呼んでいるのは、この形を変えることを指します。労働力を売る側から、生産手段を所有する側へ、ポジションそのものを移すこと。自分のメールリストとオウンドメディアという資産を持ち、価値の生成を自分の時間から切り離すこと。単価の話ではなく、循環の形の話です。
第5章:構造が分かっても動けなかった——もう一つの構造は、脳の側にありました
経済の構造を理解し、「システムを持つ側に回るべきだ」と論理的に納得しました。
それでも、私は動きませんでした。
正確には、動き始めては戻りました。仕組みを作ろうとして、三日で止まる。学び直そうとして、二週間で目の前の受注に戻る。そのたびに、忙しいから、まだ準備ができていないから、と自分に説明していました。
この現象を、意志の強さの問題だと考えているうちは、何も解決しませんでした。解決したのは、認知科学の側から説明を得たときです。
人間にはホメオスタシス(恒常性維持機能)という仕組みが備わっています。体温や血糖値を一定の範囲に保つ働きとして、キャノン(W.B. Cannon, 1929)が定式化したものです。そしてこの機能は、身体だけでなく、認識の側にも作用します。
脳にとっての「平熱」は、現在の状態です。あなたが変わろうとして新しい行動を始めた瞬間、脳はそれを平熱からの逸脱として扱い、元に戻す方向に力を働かせます。その力は、不安、面倒くささ、急に思い出した別の用事、といった形で現れます。
この、脳が平熱と見なしている範囲をコンフォートゾーンと呼びます。
そして、この範囲は四つの顔を持っています。これは私が実務の中で最も重視している整理です。
一つ目は、居られる範囲です。そこにいると消耗しない領域。
二つ目は、戻ってしまう谷です。意識して離れても、時間が経つと自然に引き戻されます。斜面の下に置かれた球が、どこから転がしても同じ底に落ちるのと同じ働き方をします。
三つ目は、見える範囲です。これが最も見落とされます。範囲の外にあるものは、選択肢として比較検討された上で棄却されるのではなく、そもそも視界に上がりません。認知科学ではこれをスコトーマ(心理的な盲点)と呼びます。存在しないことになっている、という状態です。
四つ目は、自分だと感じる枠です。「自分はこういう人間だ」という感覚の輪郭。ここが最も強く抵抗します。行動を変えることは、この輪郭を裏切ることになるからです。
この四つは別々の現象ではなく、同じ一つの領域を、違う角度から見たものです。
ここから、実務上の帰結が出ます。行動だけを変えても、その行動は定着しません。習慣術や時間管理で変えられるのは一つ目と二つ目の表層であって、三つ目と四つ目には触れていないからです。行動は意思決定の結果として出てくるのではなく、「どんな世界を現実的で、望ましいと感じているか」から生成されます。感じている世界のほうが動かなければ、行動はたいてい元の位置に戻ります。
だからこそ、ゴールを現状の外に置く作業が必要になります。現状の延長線上に置いた目標は、いまのコンフォートゾーンに収まっているので、コンフォートゾーンそのものを動かしません。ゴールをコンフォートゾーンの外に置き、そのゴールから見て現状のほうが違和感のある状態にする。すると恒常性維持機能は、あなたを現状へ引き戻す力としてではなく、ゴールへ押し出す力として働きます。働いている機能は同じで、向きが変わるだけです。
第6章:FUNNEL BASE——外側の構造と、内側の認識を、一冊で扱う
経済の側の構造と、認知の側の構造。私が行き詰まっていたのは、この二つが同時に噛み合っていなかったからでした。
そして、この二つを別々に扱っている情報しか見つかりませんでした。私が読んだ範囲では、マーケティングの本は仕組みの作り方を教えるところで止まり、作り始めた人が三日で手を止める理由までは扱っていませんでした。コーチングの本は認識の扱い方を教えますが、その人が乗っている収益構造そのものが労働集約であることには、ほとんど触れていません。片方だけを直しても、もう片方が引き戻します。
そこで、二つを一冊で扱うものを自分で書きました。それが『FUNNEL BASE』です。
内容の中心は、単純な一つの移行です。時間を売って対価を得るフロー型から、時間を投じて仕組みを作るストック型へ、収益の発生の仕方を移す。そのために、他人の土地であるプラットフォームへの依存を減らし、自分の管理下にあるオウンドメディアとメールリストを持つ。そして集客から販売までの流れを、自分が同席していなくても動く形に組み替える。
同時に、それを実行する側の認識を扱います。仕組みを作る作業は、成果が出るまでの期間が長く、その間の手応えが乏しい作業です。この期間を「耐える対象」として設計すると、ほぼ確実に途中で止まります。ここを扱わないマーケティングの教科書は、実装されない教科書になります。
本文はおよそ20万字、100項目。ただし、手順書としては書いていません。
これは分量の都合ではなく、設計上の判断です。手順を渡すと、状況が変わったときに応用できません。渡しているのは「なぜそうなるのか」という前提のほうで、目の前の状況に対して何をするかは、あなたが判断する領域として残しています。判断まで引き受けてしまうと、渡そうとしている自律が成立しないからです。
この本は無料でお渡ししています。理由を伏せません。
一つは、この知識が特定の層に留め置かれるべきものだと思っていないからです。生産手段を個人が持てる条件は、この十数年で実際に整いました。整ったのに、その前提を知らないまま時間を売り続けている人が多い。そのずれを埋めることに、私は価値を感じています。
もう一つは、私が仕事をしたい相手が、読んだ上で自分の判断で来る人だからです。無料で配ると、私に興味のない人には届きません。それでかまいません。この本を最後まで読んで、書いてあることに納得した人だけが次に進みます。この選別のかかり方が、私にとって最も効率的です。
第7章:あなたの物語の主人公は、私ではありません
書き手の物語を読ませる文章には、読み手の判断を書き手へ預けさせる力があります。私はその力を使わないように、書き手と読み手の関係に線を引いています。
私が最も警戒しているのは、その力が働いたときにできる関係です。語り手の物語を読んだ人が、語り手に感情を寄せ、語り手の判断に自分の判断を預ける、という関係。それは短期的には強力に機能します。熱量の高いコミュニティが立ち上がり、発言は素直に受け取られ、商品はよく売れます。
ただ、その関係は反転します。
自分だけのものにしたい、という感情を燃料にした関係は、その独占が崩れた瞬間に、同じ強さで逆の感情に変わるからです。熱心な支持者ほど、期待が外れたときの反転が激しくなります。これは人格の問題ではなく、燃料の性質から来る現象です。信者という関係は、構造的に不安定です。
ですので、私は依存を作らない設計を選んでいます。具体的には、四つの線を引いています。
一つ、あなたが選んだのではない方向へ誘導しない。私が持っているのは構造の説明であって、あなたが何を望むべきかについての答えではありません。何を望むかを他人が決める関係は、そもそも私が批判している構造そのものです。
二つ、あなたを修正の対象として扱わない。行き詰まっている状態は、あなたの人格の欠陥ではなく、置かれている構造の帰結です。直すべき対象として名指す語り方を、私は使いません。
三つ、短期の成果のために長期の構造を歪めない。急がせれば申し込みは増えますが、急いだ判断は、判断した本人の中に残りません。残らない判断からは、自律は立ち上がりません。
四つ、目の前の一人の利益のために、全体の整合性を犠牲にしない。特定の相手に有利な例外を作ると、その例外は他の全員に対する不誠実になります。
この四つは、心理学でいう自律性支援(Deci & Ryan)や、非指示的アプローチ(Rogers)が扱ってきた領域と重なります。専門用語で言えばそうなりますが、実務上は単純です。答えではなく、判断できるだけの前提を渡す。それだけです。
そして、私が理想としている集団の形も、この延長にあります。一つの思想で統一された一枚岩ではありません。一人ひとりが違う価値観を持ち、それぞれ独立して自分の事業を回しています。それでいて、抽象度の高い一点——たとえば「自分の哲学と美学を、他人の許可なしに表現できる状態でいたい」という一点——だけを共有している状態です。そういう多様性を許容する連帯のほうが、一枚岩よりも強いと考えています。同じ思想で染め上げられた集団は、その思想が揺らいだ瞬間に全体が揺らぎますが、それぞれが独立して立っている集団は、一人の離脱が他の誰の足場も崩さないからです。
あなたの物語の主人公は、あなたです。私は、その物語に登場する情報源の一人にすぎません。
第8章:顔を出さない、けれど名前は出す
このサイトには、私の顔写真がありません。SNSのアカウントもありません。これは準備が遅れているのではなく、意図した設計です。
理由は二つあります。
一つ目は、選別の装置として働くからです。顔とキャラクターを前面に出す発信は、確かに人を集めます。ただしそのとき集まっているのは、内容に反応した人と、人物に反応した人の混合です。後者の比率が上がると、発信の内容は自然と、その反応を維持する方向へ引かれていきます。反応が良かった話題を繰り返し、反応が悪かった論点を落とす。数年かけて、書き手は自分の読者に最適化されていきます。
私は、その最適化を受けたくありません。ですので、人物に反応する経路を最初から閉じています。ここに残るのは、書かれている内容が自分に必要かどうかで判断した人だけです。母数は減りますが、それでかまいません。
二つ目は、物語の構造に関わる理由です。
物語が読み手に届くとき、実際に働いているのは書き手が用意した映像ではなく、読み手自身の記憶です。文章を読んで情景が立ち上がるのは、その情景の部品を読み手が自分の過去から供給しているからです。だからこそ、細部を書き込みすぎた描写は、かえって届かなくなります。読み手の記憶と食い違った瞬間に、立ち上がりかけた情景が崩れるからです。
同じことが、書き手の像についても起きます。
顔と声と生活を細部まで提示すると、読み手の中に「その人の話」として固定された像ができます。固定された像は、読み手が自分を重ねる余地を奪います。私が書いている内容は、私の身の上話として消費されるべきものではなく、あなたが自分の事業に当てはめて判断するためのものです。ですので、私の像は必要な分だけ残して、それ以上は置きません。
ただし、顔を出さないことと、匿名であることは、まったく違います。
私は本名を公開しており、事業者としての所在も、特定商取引法に基づく表記として公開しています。書いたものの責任の所在は、常に私にあります。連絡が取れる状態にあり、間違いを指摘されれば、指摘した相手が誰かを私は知っている状態にあります。
匿名の発信は、これと逆の性質を持ちます。読み手の側から見ると、書き手の像が存在しないため、読み手は自分の像でそこを埋めます。埋めた分だけ、その文章は読み手にとって近く、疑いにくいものになります。にもかかわらず、書いた側は結果に対する責任を負っていません。この非対称は、私が使いたくない種類の力です。
顔を出さないのは、読み手が自分を重ねる余白を残すためです。名前を出しているのは、その余白を使って書いたものの責任を、私が引き受けるためです。この二つは矛盾しません。
終章:いま、あなたの物語のどこにいるか
ここまでで、一つの問いについて、二通りの立て方を並べてきました。
「なぜ働いても状況が変わらないのか」という問いです。一つ目の立て方は、原因を自分の能力や集中力の側に置きます。二つ目は、収益の循環がどの形をしているか、そして自分が現実的だと感じている範囲がどこまでか、という二つの軸の側に置きます。このページが扱ってきたのは、二つ目のほうです。
原因を置く場所が移ると、次に打てる手が変わります。構造は、見えるようになった時点で、扱える対象になるからです。見えていない構造は、あなたの意志と無関係に働き続けますが、見えている構造は、選択の対象になります。
この先にあるのは、劇的な転換ではありません。地味な組み替えです。
いま持っている技能を、時間と交換するのではなく、資産と交換する形に置き直す。他人の土地に置いていた発信の拠点を、自分の管理下に移す。集客から販売までの流れのうち、あなたが同席しなくても動く部分を、一つずつ増やしていく。並行して、その作業を「耐える期間」ではなく「望ましい状態への移動」として認識できるように、基準点そのものを置き直す。
これらは、数年かけて進む作業です。ただ、進んだ分は戻りません。時間を売って得た収入は使えば消えますが、組み替えた構造は残り続けるからです。
そして、この作業には一つ、目に見えにくい特徴があります。効果が、始めてしばらくは数字に現れないという特徴です。仕組みを作っている期間は、売上のグラフの上では何も起きていない期間として表示されます。ここで多くの人が引き返します。手応えが乏しいまま続ける作業を、脳は逸脱として扱うからです。
ですので、この期間をどう認識するかが、実際の分かれ目になります。「成果が出ないのに続けている期間」として見ているうちは、続きません。「望ましい状態のほうへ移動している期間」として見えるようになると、同じ作業が同じ長さで続けられます。作業量ではなく、その作業がどこに向かっているものとして見えているかが変わるだけです。第5章で書いた、ゴールをコンフォートゾーンの外に置くという話は、ここで具体的な意味を持ちます。
そして、その先にあるのは、収入の額ではないと私は考えています。やりたくない仕事を、金額を理由に引き受けなくてよくなる状態。自分の哲学と美学を、誰かの許可を取らずに表現できる状態。その状態に到達した個人が増えることが、私の仕事の目的です。
私が持っているものは、この道を先に歩いた人間の地図です。地図は、歩く人の代わりに歩いてはくれません。ただ、どこに何があるかを先に知っていれば、消耗する回数は確実に減ります。
その地図を、『FUNNEL BASE』という一冊にまとめてあります。無料でお渡ししているものです。読むかどうか、そして読んだ上でどうするかは、あなたが決めることです。
吉田 颯汰
