はじめに
生活費の三ヶ月分。半年分。一年分。目安とされる金額を調べて、そこを目標に積み上げてきました。
そして、その額に届きます。ところが、届いた瞬間に思うのです。「これでは、まだ足りないかもしれない」。半年分が貯まれば一年分が視野に入り、一年分が貯まれば、今度は「病気になったら」「収入が途絶えたら」という想定が新しく生まれる。
必要な貯金額の目安は、すでに多く語られています。本記事が置くのは、その一段手前の問いです。なぜ、いくら貯めても「これで安心だ」という到達点が訪れないのか、その理由です。
結論を先に示します。額で安心を買おうとするかぎり、終点は構造的に存在しないからです。
基準点は、達成するそばから上昇する
まず、心の側の仕組みを確かめます。
人は、手に入れた水準に、驚くほど早く慣れます。手にした安心にはすぐ慣れ、基準点そのものがじわじわと上昇していく。だから「あと少し」は、いくら達成しても永遠に「あと少し」のままです。
この現象は、貯金において特にはっきり現れます。なぜなら、貯金には「これで十分」という客観的な線が引けないからです。将来に何が起こるかは誰にも分かりません。分からない以上、どんな額を積んでも「足りないかもしれない」という想定は、いくらでも立てられます。
想定が無限に立てられるということは、必要額もまた無限に更新できるということです。基準が「起こりうるすべての事態に備えられる額」であるかぎり、そこに終点はありません。
しかも、比較できる相手が無数にいます。同世代の平均貯蓄額を目にすれば、そこが新しい基準になる。もっと持っている誰かを見れば、自分はまだ足りないと感じる。満足の手前で、つねに次の基準が差し出される連鎖が回り続けます。
恐れの対象が入れ替わっているだけ
もうひとつ、逆側からも確かめておきます。収入が増えれば安心できるのか、という問いです。
実際に収入が上がった人の多くが、この理屈の通りにはならなかったと証言します。「来月はどうなるか」という不安は消えません。それどころか、守るべきものが増えたぶん、不安はむしろ重みを増すことがあります。
稼ぐ前は「足りないこと」を恐れ、稼いだ後は「失うこと」を恐れる。恐れの対象が入れ替わっただけで、恐れている状態そのものは少しも変わっていません。
貯金でも、まったく同じことが起こります。少ないうちは「足りないこと」を恐れ、積み上がると「取り崩すこと」を恐れる。残高が増えるほど、それを減らす出費に対する抵抗が強くなる。安心を得るために貯めたはずが、貯まった額そのものが新しい緊張の源になっていきます。
もし不安が純粋に「金額の不足」から来ているのなら、金額が満たされた時点で消えるはずです。ところが消えない。だとすれば、不安の本当の源は、金額ではない別の場所にあります。
額ではなく、足場が心の安定を決めている
では、その別の場所とはどこでしょうか。
同じ額を持っていても、その収入が「いつ止まるか分からない」構造から来ているのか、「自分が手を止めても続く」構造から来ているのかで、心の安定はまるで違います。
考えてみてください。貯金が必要だと感じるのは、なぜでしょうか。収入が途絶えたときに備えるためです。つまり貯金への切迫感は、「収入が止まりうる」という構造そのものから生まれています。
だとすれば、貯金は、その構造への対処ではありません。構造が生む恐れを、残高という緩衝材で和らげる作業です。緩衝材は、衝撃を和らげはしますが、衝撃の発生源には触れていません。だから、いくら厚くしても、発生源が残っているかぎり、恐れは湧き続けます。
心理学者デシとライアンの自己決定理論は、人が安定するために欠かせない欲求のひとつとして「自律性」を挙げます。自分の行動を自分で選び、自分で律しているという感覚です[Deci & Ryan, 1985]。収入が他者の都合で上下する状態は、この自律性を奪います。そして、自律性の欠乏は、額とは無関係に慢性的な不安を供給し続けます。
だから、高い収入を得ていても落ち着かない人と、収入は控えめでも穏やかな人とのあいだに、金額では説明のつかない差が生まれます。差を分けているのは残高ではなく、手綱を誰が握っているかです。
▸ この「手綱の所在」については、給料を自分で決められない理由で扱っています。
まとめ:問いを「額」から「入り方」へ
貯金にいくら積んでも安心が訪れないのは、目標額の設定が甘いからでも、まだ足りないからでもありませんでした。安心を額で買おうとするかぎり、その値段は際限なく吊り上がっていくからです。
念のため断っておきます。貯えを持つこと自体を否定しているのではありません。手元に余裕があることは、選択肢を広げます。突然の出費に備えることにも、現実的な意味があります。
問題は、貯金に「不安の解消」という役割まで背負わせたときに起こります。貯金は、収入が止まる恐れを和らげはしますが、その恐れを生んでいる構造には触れていません。だから、いくら積んでも到達感が訪れない。
確かめる問いは、ひとつです。いま自分が積み上げようとしているのは、具体的な計画のためか。それとも、名前のつかない恐れを鎮めるためか。
後者なら、額を追う前に、問いを入り方のほうへ向け直すときです。この構造全体は、稼ぐことへの後ろめたさの正体にまとめています。
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参考文献
【学術論文・理論】
- Deci, E. L., & Ryan, R. M. Intrinsic Motivation and Self-Determination in Human Behavior(1985)Plenum Press
- Ryan, R. M., & Deci, E. L. “Self-Determination Theory and the Facilitation of Intrinsic Motivation”(2000)American Psychologist, 55(1)






