ミニマリストという「自己像」は、誰が決めてい

ミニマリストという自己像は誰が決めるのか|外が貼るラベルの構造

はじめに

持ち物を減らし、生活を削ぎ落とす。その暮らしぶりは、確かに身軽です。けれど、あるときから妙な感覚が混ざりはじめます。減らすこと自体が自分の証明になっている、という感覚です。

物を増やすと、自分が自分でなくなる気がする。誰かに「ミニマリストなんですね」と言われると、その像を保たなければという圧が働く。身軽になるために始めたはずが、いつのまにか一つの型を維持する仕事になっている。

暮らし方の良し悪しについては、情報が揃っています。本記事が扱うのは、その土台にあたる部分です。なぜ、自分を律する生活は、これほど強く「自分は何者か」という感覚と結びつくのか、その仕組みです。

結論を先に示します。それが、答えにくい問いへの、驚くほど明快な答えを供給してくれるからです。そしてその明快さと引き換えに、自己像の材料は外から調達されることになります。

自由は、寄る辺なさでもある

まず、この結びつきの土台にあるものを確かめます。心理学者エーリッヒ・フロムは、近代がもたらした自由の二つの顔を見抜きました[Fromm, 1941]。

一つは、何かからの自由です。かつて人は、身分や共同体や伝統に固く縛られていました。近代は、この束縛を次々と打ち砕きます。人は生まれや身分から解き放たれ、自分の人生を自分で選べるようになりました。

けれどフロムは、ここに見過ごされがちな影があると指摘します。束縛から自由になるということは、同時に、よりどころを失うということでもあるのです。かつて共同体は、人を縛ると同時に人を支えていました。何をすべきか、何を欲すべきか。その答えを、あらかじめ与えてくれていたからです。

その束縛が取り払われたとき、人は自由になると同時に、寄る辺なさの中へ放り出されます。「何を欲してもよい」という状態は、裏を返せば、「何を欲すべきかを、誰も保証してくれない」という状態です。

この宙づりに、人はいつも耐えられるわけではありません。誰かに、あるいは何かに「これを欲しなさい」と決めてもらえたなら、どれほど楽でしょうか。フロムは、人が自由の重さから逃れようとするこの動きを、自由からの逃走と呼びました。

「律する自分」は、輪郭をくっきり縁取ってくれる

自分を律する暮らしは、この逃走の、最も洗練された形の一つです。

人は誰しも、自分が何者であるかを知りたいと願っています。けれど、この問いに答えるのは容易ではありません。自分が本当に何を望み、何を大切にし、どこへ向かいたいのか。これを自分の言葉で語るのは、骨の折れる、終わりのない作業です。多くの人にとって、自分の輪郭はぼんやりとしています。

そこへ、鮮やかな答えが差し出されます。「私は、削ぎ落とすことのできる人間だ」。この自己像は、驚くほど明快です。何を持たないか、どこまで減らせたか、どんなルールを守っているか。これらは具体的で、目に見えて、他人にも示せます。つかみどころのなかった自分に、はっきりとした形を与えてくれるのです。

しかも、この物語は外形的な達成によって絶えず補強されます。ルールを守りきるたびに、「自分はこういう人間だ」という自己像が新たな証拠を得ます。アイデンティティが、達成という燃料を補給され続けるのです。

もう一つの強みは、外から見えやすいという点にあります。内面の探求は他人には見えません。自分が何を望むかを深く問うても、その営みは静かで、誰にも示せません。けれど削ぎ落とした暮らしは、目に見える形を取ります。自己を確立する作業の中で、これはとりわけ「展示できる」種類のものなのです。だから人は、見えない探求よりも、見える達成のほうへ流れます。

ここには、ある引き換えが成立しています。自分が何を欲するかを自分で問い続けるという、曖昧で重い作業を手放す。その代わりに、明快で語りやすい物語を受け取る。問いの曖昧さに耐える代わりに、答えの明快さを買うのです。

念のため断っておきます。明確な目標を持つこと、それに打ち込むこと自体を否定しているのではありません。問題は、その達成が自分の望みの表現なのか、それとも自己像の穴埋めなのかにあります。前者なら、達成は自分の欲望の足跡です。後者なら、それは自分が何者か分からない不安を覆い隠すための、仮の看板です。

そのラベルを貼っているのは、外側である

ここで、決定的な事実に触れておきます。この種の自己像を判定しているのは、本人ではありません。

一つの経験が、それをよく物語ります。最低限の食事と睡眠で創作に没頭していると、「ストイックだ」「集中力がすごい」と感心されます。ところが、まったく同じように食事も取らず時間を忘れてゲームに熱中していると、評価は一気に逆転します。今度は「だらしない」と見なされるのです。

行動の中身は、ほとんど変わりません。同じように没頭し、同じように生活を切り詰めている。それなのに、対象が創作かゲームかというだけで、評価は賞賛から軽蔑へ真っ二つに割れます。

この事実が教えるのは、こうです。「ストイックかどうか」という評価は、行動そのものの性質から来ているのではありません。もしそうなら、同じ没頭は対象が何であれ同じ評価を受けるはずです。決めているのは、その対象を価値あるものと見なすか否かという、外側の物差しです。それは、外部が特定の行動に貼りつけるラベルにすぎません。

ここから、避けがたい帰結が導かれます。人がそのラベルに沿おうとするとき、その人は、外部が承認する対象を選び、外部が貼るラベルに自分を合わせています。つまり、自分を律しているつもりのその行為が、外部の基準に最も忠実に従う行為になっているのです。

だからこそ、この種の賞賛は油断のならない言葉です。ほめ言葉の顔をしながら、人を外部の物差しの上にますます深く縛りつけます。賞賛されればされるほど、人はその評価に応えようとし、外部が認める方向へ自分の欲望を寄せていきます。

▸ この「賞賛が通貨になる」構造の全体像は、ストイックであるほど自由から遠ざかる理由で扱っています。

まとめ:自己像を、内側から立て直す

削ぎ落とした暮らしが自己像と強く結びつくのは、それが答えにくい問いへの明快な答えを供給してくれるからでした。そして、その明快さの材料は外から調達されているため、自己像の判定権も外に置かれたままになります。

ここではっきりさせておきます。持ち物を減らす暮らし自体を否定しているのではありません。自分の生活と相談して減らすなら、それは主権の行使です。問題は、減らすことが「自分は何者か」の証明になった瞬間に、証明を受け取る相手が外へ移ることです。

見分ける問いは、一つで足ります。誰にも見られず、誰にも語らないとしても、その暮らしを選ぶか。選ぶなら、それは自分の欲望の表現です。選ばないなら、支えていたのは暮らしではなく、その暮らしに貼られるラベルのほうでした。気づいた地点が、自己像を内側から立て直す出発点になります。

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参考文献

【学術論文・理論】

  • Fromm, E. Escape from Freedom(1941)(邦訳『自由からの逃走』)
  • Nietzsche, F. Zur Genealogie der Moral(1887)(邦訳『道徳の系譜』第三論文)
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