市場価値という言葉

市場価値を高めるという言葉が隠すもの|評価軸を外部に預ける罠

はじめに

「自分の市場価値を高めよう」「市場価値を客観的に把握しよう」。キャリアをめぐる言葉の中で、いまや誰もが使うこの言葉は、まるで中立的で、賢明な助言のように響きます。感情に流されず、自分を客観的に評価する。冷静で、大人の態度に聞こえる。だから、私たちは、この言葉を疑いません。

市場価値の高め方については、情報が揃っています。本記事が扱うのは、その土台にあたる部分です。「市場価値」という前向きな言葉の裏で、実際には何が起きているのか、そして、なぜ、市場価値を追うほど、かえって不安が深まることがあるのか、その構造です。

結論を先に示します。「市場価値」とは、あなたの労働力を買う側が、あなたにいくら払う気があるか、という値段です。その物差しの目盛りは、市場——買い手の側——が刻んでいます。市場価値を高めようとするとき、あなたは、自分の値打ちを測る権利を、進んで市場に明け渡しているのかもしれません。

その物差しの目盛りは、買い手が刻んでいる

あなたが身につけたスキルの価値は、いったい誰が決めているのでしょうか。素朴に考えれば、価値のあるスキルとは役に立つスキルであり、役に立つかどうかはそのスキル自体の性質で決まる——そう思えるかもしれません。けれど、実際には、そうではありません。

スキルの価値は、そのスキルを買いたい人がどれだけいるか、という需要によって決まります。そして、その需要を持っているのは、労働力を買う側です。あなたが何年もかけて磨いたスキルでも、それを買いたい人がいなくなれば、価値はゼロに近づく。逆に、たいして苦労せず身につけたスキルでも、それを求める人が押し寄せれば、高い値がつく。あなたのスキルにどれだけの価値があるかは、あなたの取り組みの量ではなく、買い手の都合で決まります。

この、自分の価値を自分で決められないという状態こそ、労働力を売る立場の、本質的な弱さです。「あなたの市場価値を高めましょう」と言われるとき、その「価値」を測る物差しは、市場が握っている。あなたが市場価値を高めようとするとき、あなたは、買い手が価値を認める方向へ、自分を作り替えようとしている。それは、自分の値打ちを、自分ではない誰かの基準に、進んで合わせにいく行為にほかなりません。市場価値を追えば追うほど、あなたは、自分の価値の決定権を、市場へと明け渡していきます。

「客観性」という装いが、上書きを覆い隠す

この言葉の巧妙さは、それが「客観性」の装いをまとっている点にあります。

「市場価値」は、あなたの主観的な思い込みではなく、市場という客観的な現実が定める、動かしがたい事実のように語られます。だから、それに従うことは、現実的で、賢明なことに見える。けれど、市場が定める価値は、決して、絶対の真実ではありません。それは、その時々の需要と供給が生み出す、移ろいやすい数字にすぎない。にもかかわらず、「市場価値」という言葉は、その移ろいやすい数字を、あなたが従うべき客観的な基準へと、格上げしてしまう。

この弱さは、あなたが優秀であるかどうかとは、無関係に働きます。むしろ、優秀な人ほど、見落としがちです。高いスキルを持ち、高く評価されている人は、「自分の価値は、自分の実力で保たれている」と感じます。けれど、その評価もまた、買い手の需要が支えているにすぎません。需要が消えれば、どれだけ高いスキルも、値がつかなくなる。高く評価されている人ほど、その評価を失う落差は大きく、恐れも深い。頂点にいる人が、しばしば誰よりも不安なのは、自分の価値の決定権を、自分では握っていないことを、心のどこかで知っているからです。

▸ この「不安は感情でなく設計された地形だ」という論点は、将来が不安なのは弱さではないで深く扱っています。

「知っておく」のと「測られる」のは、違う

この上書きが厄介なのは、「市場価値」が、便利で、実際に役に立つ言葉でもある、という点です。転職や交渉の場面で、自分の市場価値を把握しておくことには、現実的な意味があります。だから、この言葉を全面的に捨てることはできません。

問題は、便利な道具であるはずのものが、いつのまにか、唯一の物差しへと昇格してしまうことです。市場価値を「知っておく」のと、市場価値で自分を「測る」のとは、まるで違います。前者では、あなたが市場価値を使っている。後者では、市場価値が、あなたを支配している。同じ言葉でも、どちらの位置にあるかを、見誤ってはなりません。

市場価値を、唯一の物差しとして内面化してしまうと、あなたは、市場が認める価値だけが、自分の価値だと感じるようになる。市場が求めないものに、自分の価値を見いだせなくなる。評価の主権を市場に明け渡したとき、あなたは、市場の気分に、自分の値打ちを、丸ごと預けてしまうのです。

まとめ:評価の物差しを、自分の側に握り直す

「市場価値を高める」という言葉が隠しているのは、この上書きです。それは、あなたの価値を測る物差しを、あなたの手から市場の手へと移す作業を、「客観的な自己評価」という中立的な言葉で、覆い隠します。

必要なのは、市場価値を無視することでも、他人の意見を拒むことでもありません。何を価値とするかの、最終的な決定権を、外に明け渡さないことです。市場の評価を、一つの外部情報として参考にはするが、それに自分の価値を、丸ごと預けない。評価の物差しを、市場の手から自分の内側へ取り戻すこと——それが、外から供給される「まだ足りない」に、追い立てられなくなる鍵になります。その全体の設計図を、次の一歩として受け取ってください。この評価軸の問題がキャリア不安全体でどう働くかは、キャリアアップしても将来の不安が消えない構造にまとめています。

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参考文献

【学術論文・理論】

  • Deci, E. L., & Ryan, R. M. Intrinsic Motivation and Self-Determination in Human Behavior(1985)Plenum Press
  • Ryan, R. M., & Deci, E. L. “Self-Determination Theory and the Facilitation of Intrinsic Motivation, Social Development, and Well-Being”(2000)American Psychologist, 55(1)
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