はじめに
いまの環境が自分を苦しめているのなら、環境を変えればいい。別の会社、別の職種、別の業界へ移れば、この閉塞感からも解放されるはずだ——。転職を考えるとき、多くの人がこう期待します。実際、転職は環境を刷新します。新しい人間関係、新しい仕事、ときには上がった収入。移った直後には、確かに空気が変わったように感じられます。ところが、しばらくすると、不安は戻ってきます。しかも、以前とよく似た顔をして。
後悔しない転職の方法は、すでに多く語られています。本記事が置くのは、その一段手前の問いです。なぜ、転職して環境を変えても、胸の底にある不安は、まるで引っ越しの荷物に紛れて新しい住まいまでついてくるように、消えないのか、その構造です。
結論を先に示します。ついてくるのは、あなたの立場そのものだからです。転職は、雇う相手を替える行為です。けれど、あなたが「雇われる側」であるという立場は、転職によっては変わりません。そして、キャリア不安の多くは、この立場そのものから生まれています。
📖 目次
転職は、労働力の「売り先」を替えているだけ
転職を、一つの市場として眺めてみます。そこでは、求職者が自分の労働力を売りに出し、企業がそれを買おうとしています。求職者は、より良い条件を求めて、企業から企業へと移っていく。
この市場で起きている移動の正体を、冷静に見てください。求職者が移動しているのは、あくまで「雇い主」です。A社からB社へ、B社からC社へと、労働力を買う相手を替えている。移動のたびに、雇い主は替わります。けれど、求職者が「雇われる側」であるという立場は、どの移動の後も、まったく替わっていません。
スポーツ選手の移籍に似ています。移籍によって、所属するチームは替わる。年俸も上がるかもしれない。けれど、その選手が「チームに雇われて働く選手」であることは、移籍によっては変わりません。どれだけ良いチームへ移っても、契約を切られる可能性からは、自由になれない。転職で手に入るのは、より良い条件であって、切られない保証ではないのです。
不安の根は、雇われるという立場そのものにある
なぜ、雇われる立場そのものが、不安の根になるのか。
経済学者マルクスは、近代の労働者が置かれた条件を「二重の自由」と呼びました[Marx, 1867]。労働者は、身分の拘束から自由である一方で、生産手段——価値を生み出す土台——を持たないという意味でも「自由」だ、というのです。生産手段を持たない者は、生きていくために、自分の労働力を売るしかない。後にこれを経済学の体系として整理したのが、宇野弘蔵でした[宇野, 1964]。
労働力しか売るものがないということは、あなたの生活が、その労働力の買い手の存在に、完全に依存しているということです。買い手が「あなたの労働力はいらない」と言えば、あなたは売り物を失う。買い手が「もっと安く」と言えば、条件を飲むか、別の買い手を探すしかない。この、買い手に生活の綱を握られた状態は、それ自体が、絶えざる不安の源です。どれだけ有能でも、労働力を売る側にいる限り、この根本の不安定さからは逃れられません。「三十五歳限界説」や「四十五歳の壁」といった言葉が、これほど人を怯えさせるのは、それらが、ふだんは隠れているこの根を、はっきりと指し示すからです。
▸ この「労働力を売る立場そのもの」への疲れが、なぜ根から目を逸らさせるのかは、働きたくないという感覚は甘えではないで扱っています。
移動と前進は、別のものである
ここに、キャリアをめぐる根深い錯覚があります。私たちは、雇い主を替えて条件を良くすることを、キャリアの「前進」だと考えます。けれど、雇い主を替えることと、雇われる立場から降りることは、まったく別の方向の運動です。
転職の直後に訪れる安心が、なぜ「蜜月」で終わるのかも、同じ構造で説明できます。移った先が新鮮なあいだは、あなたの注意は新しい環境そのものに向いています。覚えることが多く、その忙しさが、根にある不安を一時的に覆い隠す。ところが、環境に慣れ、忙しさが日常に変わると、覆いが外れ、根にあった不安がまた顔を出します。慣れるとは、隠れていた立場の問題が、ふたたび見えるようになることでもあるのです。だから、転職の効き目は、新しさが薄れるのと同じ速さで切れていきます。移った先が良い会社か悪い会社かは、この切れ方には、あまり関係がありません。
ここで、慎重に区別しておきます。転職そのものを否定しているのではありません。いまの職場が心身を損なうものなら、そこから移ることは、正しい選択です。より良い条件を求めて動くのも、当然の権利です。言いたいのは、転職に「立場を変える力」を期待しすぎると、裏切られる、ということです。転職は、水平移動には力を発揮しますが、立場の垂直移動には、原理的に無力です。この限界を知って転職するのと、転職に不安の解消を託して裏切られ続けるのとでは、同じ移動でも、心のありようがまるで違ってきます。
まとめ:移動の自由を、立場を変える力と取り違えない
転職しても不安がついてくるのは、あなたが移動しているのが雇い主であって、雇われる立場そのものは替わっていないためでした。移動の自由がどれだけ豊かでも、労働力を売る立場から降りる扉が閉じている限り、あなたは同じ地面の上を、水平に動き続けているだけです。
必要なのは、もっと良い転職先を探すことではありません。移動の自由を、立場を変える力と取り違えないことです。そのうえで、値札を上げる方向ではなく、値札をつけられる側から抜ける方向——自分の生産手段を持つ方向——へ、少しずつ舵を切ること。その全体の設計図を、次の一歩として受け取ってください。この立場の問題がキャリア不安全体でどう働くかは、キャリアアップしても将来の不安が消えない構造にまとめています。
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参考文献
【学術論文・理論】
- Marx, K. Das Kapital, Band I(1867)Verlag von Otto Meissner(邦訳『資本論』第一巻)
- 宇野弘蔵『経済原論』(1964)岩波書店






