自由の重荷と権威

ロールモデルを探すとき、何を手放しているか|自由の重荷と権威

はじめに

独立してしばらく経つと、多くの人が同じ場所に立ちます。すべて自分で決められるようになったのに、その決定が一つも軽くない。この仕事を受けるべきか、断るべきか。この値段は妥当か。この方向でいいのか。正解の分からないまま、日々、選択だけが積み上がっていく。そんなとき、先を行く誰かの言葉が、驚くほど魅力的に響きます。

ロールモデルの見つけ方や、誰を参考にすべきかについては、すでに情報が揃っています。本記事が扱うのは、その手前です。なぜ、自由を手にしたはずの人ほど、従うべき誰かを探しはじめるのか。

結論を先に示します。自由は、贈り物であるより先に、重荷として現れます。 そして人は、その重荷から逃れるために、手に入れたばかりの決定の主権を、自ら進んで差し出そうとします。

「すべて自分で決める」は、身軽さの喪失でもある

決めるということは、責任を引き受けるということです。ある道を選べば、選ばなかった道の結果は永遠に分かりません。そして、選んだ道が悪い結果を生めば、その責任はすべて、決めた自分に返ってきます。

会社員のとき、多くの決定は上司が、あるいは組織が下していました。窮屈である反面、そこにはある種の身軽さがありました。決めなくてよいということは、決定の重荷を背負わなくてよい、ということでもあったのです。

独立して、人はこの身軽さを失います。日々、無数の決定が立ち現れ、そのどれもが正解の分からないまま選択を迫る。そして結果が悪ければ、責める相手は誰もいません。決めたのは自分なのですから。

この重荷が厄介なのは、目に見えにくい消耗を強いるからです。長時間の労働による身体の疲れは目に見えます。けれども、絶え間ない決定による心の疲れは、目に見えません。 さらに深いのは、拠りどころとなる外の権威がどこにもない、という点です。自分の決定が正しいかどうかを、最終的に保証してくれるものがない。この根拠のなさが、人を絶えざる不確かさのなかに置きます。

自由の重荷に耐えかねた人は、権威へ向かう

この構造に、深い洞察を与えてくれる古典があります。ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』に置かれた「大審問官」の物語です。

そこで語られるのは、驚くべき見立てです。人間は、自由を求めながら、実は自由の重荷に耐えられない。 自分で善悪を決め、自分で道を選び、自分で責任を負う——この完全な自由は、耐えがたいほど重い。だから人は、その重荷から逃れるために、自分の自由を進んで誰かに差し出そうとする。差し出す相手は、「パン」と「奇跡」と「権威」を与えてくれる者です。食べ物の保証を与え、疑いようのない確かさを示し、従うべき権威として君臨してくれる者。

この寓話の核は、独立した人の、ごく日常的な経験にそのまま当てはまります。自由を求めて独立した。ところが手にした「すべて自分で決める自由」は、耐えがたい重荷でもあった。その重さに耐えかねたとき、人は自らの自由を、新しい権威に進んで差し出そうとします。

手引きが売っているのは、確かさである

独立の世界で、この権威は、いくつもの具体的な形をとって現れます。成功した人の手引き。「起業家とはこうあるべきだ」という理想の像。高額な学びの場や会員制のつながり。

これらが売っているものの正体を見定めておきます。手引きは「確かさ」を売っています。 この方法なら確実にうまくいく、と。理想の像は「正解の自己像」を売っています。 成功する人はこう考え、こう行動する、と。学びの場は「権威への帰属」を売っています。 ここに属していれば正しい方向を歩んでいる、と。これらはすべて、自由の重荷のなかで渇望される確からしさと拠りどころを、商品として差し出します。

けれども、これらに身を寄せるとき、人は大切なものを手放しています。自分で判断するという、主権です。 手引きに従うとき、人は自分の状況に即して考えることをやめ、他人の型に自分を合わせます。理想の像に従うとき、自分がどうありたいかを問うことをやめ、供給された像をなぞろうとします。

▸ この「もっと追い込めばいい」という圧力が終わらない理由は、やることが多いのは段取りの問題ではないで扱っています。

学びと、主権の明け渡しの境目

ここで、慎重に区別しておきたいことがあります。他人から学ぶこと、優れた実践を参考にすることは、悪いことではありません。むしろ賢明なことです。

問題は、学ぶことと、主権を明け渡すことの境目にあります。他人の実践を、自分の判断の材料として使うなら、それは学びです。他人の実践に、自分の判断そのものを丸ごと委ねるなら、それは服従です。 前者では、決定の主権は自分の手元に残ります。後者では、主権は権威の側へ移ります。

自由の重荷に耐えかねた人は、この境目をたやすく踏み越えます。学ぶつもりが、いつのまにか主権を明け渡している。避難所の心地よさが、この踏み越えを覆い隠します。

境目を越えたことは、ある違和感から気づけます。権威の指針に従うほど楽になるどころか、自分が空洞になっていくような感覚。他人の型に自分を合わせるほど、自分が本当に何をしたいのかが分からなくなっていく。重荷から逃れたはずなのに得ているのが、安らぎではなく自己の希薄化だとしたら、そこは学びの側ではありません。

まとめ:主権を手元に残したまま、学ぶ

ロールモデルを探すこと自体は、問題ではありません。斬るのは、行動ではなく、自由の重荷を肩代わりする代わりに判断の主権を吸い取っていく、その関係のかたちのほうです。

必要なのは、問いを掛け替えることです。「誰を参考にすべきか」ではなく、「いま私は、材料として受け取っているのか、それとも判断ごと預けているのか」。この問いを持ったまま学ぶかぎり、他人の実践は、あなたの主権を痩せさせません。

その全体像は、「起業すれば自由になれる」という物語の構造にまとめています。自由を求めて始めた道が、いつのまにか自由を差し出す道に変わっていないか——それを確かめる視点が、ここにあります。

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参考文献

【学術論文・理論】

  • Deci, E. L., & Ryan, R. M. Intrinsic Motivation and Self-Determination in Human Behavior(1985)Plenum Press
  • Достоевский, Ф. М. Братья Карамазовы(1880)(邦訳『カラマーゾフの兄弟』「大審問官」)
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