主体的に動いてほしい、と言われます。意味は分かるのに、何をすれば主体的になるのかが分かりません。指示を待っていれば受け身だと言われ、確認を取らずに進めれば勝手にやったと言われる。独立して一人で仕事をするようになってからも、同じ言葉を今度は自分で自分へ向けています。
この記事の答えは一行で書けます。主体性は、その人が持っている性質ではありません。条件が揃ったときに、結果として出てくる行動の形です。そして揃っていない条件のうち、最初に表に出るのは、どこまでを自分の判断で決めてよいかが、どこにも書かれていないことです。書かれていない範囲は、越えたときに初めて見えます。動く前に確かめるには費用が要るので、動かないという選択が、その場では合理的になります。
ここに、この記事が扱う問いがあります。なぜ、動かないほうが合理的になるのか。範囲が書かれていないことは、多くの場合、相手の怠慢ではありません。発注する側も、事前にすべての場合を想定できないからです。にもかかわらず、書かれていないという事実は、動かなかった側の姿勢として観察されます。構造の欠落が、本人の性質についての記述に変換されます。その変換がどこで起きているかを特定します。
解かない問いも先に置きます。何を基準に決めるか、という基準の中身は扱いません。基準をどう作るかは決断できないのは性格ではなく、判断を手渡してきた構造の帰結が引き受けています。この記事が扱うのは、基準の手前にある「そもそも自分が決めてよいことになっているのか」という一段だけです。二つは似ていますが、片方が解けても、もう片方は残ります。基準を持っている人でも、範囲が不明な場では動けません。逆に範囲が明示されていても、基準がなければ決められません。別々の欠落なので、別々に埋めることになります。
以下では、この語が畳んでいる別々の状態を分けたうえで、案内される方法がどこへ効いているかを見ます。次に、要求が命令の形をとったときに何が起きるかを追い、外から供給された理由が内側の理由に及ぼす作用を扱います。そのうえで、決めてよい範囲が書かれないことの構造と、覆される見込みが調べる動機ごと消してしまう機序を置きます。最後に、一人で働く場合に同じ構造がどう再現されるか、事業の側でそれが何として現れるか、そして範囲が見えるようになったことをどこで確かめるかを順に見ます。
📖 目次
「主体的に動けない」は、三つの別々の欠落をまとめて呼んでいる
「主体的に動けない」と言われる状態には、少なくとも三つの別々の形があります。
一つ目は、何をすべきかが分からない形です。目的は共有されているのに、そこへの経路が見えていない。動く方向が定まらないので、動けません。
二つ目は、何をしてよいかが分からない形です。やるべきことは見えているのに、それを自分の判断で始めてよいかが分からない。動けるのに、動く許可の所在が不明です。
三つ目は、動く理由が自分の側にない形です。方向も許可も明確で、そこへ向かう理由が外から与えられたものしかない。動けますが、続きません。
外から見えるのは、どれも「自分から動かない」という一つの事実です。ところが処方は逆の方向を向きます。一つ目は情報の問題、二つ目は権限の問題、三つ目は動機の問題です。必要なものが違う以上、同じ助言が三つに効くことはありません。
三つとも本人の姿勢の問題ではないか、という見方は成り立ちません。とくに二つ目は、姿勢を変えても解けません。範囲が明示されていない場で自分の判断で動き、それを越権として扱われた経験があるなら、待つことは学習された合理的な選択です。姿勢を入れ替えて同じ場で動けば、同じ結果が繰り返されます。学習の対象になっているのは意欲ではなく、その場の費用の構造のほうです。
三つは重なります。そして重なったとき、最も表面に出るのは二つ目です。許可の所在が不明な状態では、方向が分かっていても動けません。動かないという同じ観察が返るので、情報の不足も動機の不足も、その手前で隠れます。順序として先に確認すべきなのは二つ目だ、ということになります。
動かなかった直後に、何が分かれば動けたかを聞いてみます。一つ目なら「どう進めるかの見当がつかなかった」と答えられます。二つ目なら「決めてよいのか分からなかった」と答えられます。三つ目だけは、分かれば動けたという形の答えが出てきません。足りなかったものが情報ではないからです。答えの出方そのものが、どの形かを教えます。
この分け方を持たないと、「主体性がない」という一語が三つをまとめて引き受けます。そして一語になった時点で、原因は人の側へ移ります。性質として扱われたものは、そのまま評価の対象になります。評価の対象になったものは、外から測られる状態に置かれます。主体的であるかどうかを他人に判定してもらう構造が生まれるので、主体性を得ようとするほど、判定の位置は外へ移っていきます。
主体性の育て方として並ぶ五つは、動機の側へ集まる
案内されている方法は、五つあります。
当事者意識を持つ。目の前の仕事に意識を向けて関わる。マインドセットを変える。行動を習慣にし、環境を整える。自分で考えて業務を進め、指示を待たない。
五つとも、記述としては正確です。主体的に動いている人を外から観察すれば、確かにこう見えます。書いた側が観察を誤っているわけではありません。
当事者意識、意識を向けること、マインドセットの変更。これらはすべて、内側の状態を変えることを求めています。習慣と環境は、行動が起きやすい条件を整えます。五つが向いているのは、三つ目の形——動く理由が自分の側にない——だけです。方向が見えない一つ目にも、許可が不明な二つ目にも、届きません。
そして三つ目に対しても、処方の形は「理由を持て」になっています。意識を変えれば動けるようになる場面は実在しますが、この処方は結果の記述を手順として渡しています。当事者意識を持っている人が主体的に動くのは事実です。ただし当事者意識のほうが、動いた結果として後から生じている可能性が残ります。順序が逆であれば、先に意識を変えようとしても入口が見つかりません。
この順序そのものは行動できないのは意志の問題ではないが正面から扱っています。行動は意思決定の結果として出てくるのではなく、何が現実的に見えているかによって生成される、という整理です。意識を先に変えようとする処方は、この順序を逆に置いています。
五つのどれも無効ではありません。方向も許可も明確で、動く準備が整っている状態では、意識の切り替えが最後の一押しになります。効く場面が限られている、という話です。実際、五つが最もよく効くのは、既に動いている人が動きの質を上げようとする場面です。
一方で「指示を待たない」は、二つ目の形に対して有害に働くことがあります。範囲が不明な場で指示を待たずに動けば、越権が発生します。そして越権の結果は、たいてい動いた本人が引き受けます。助言に従った側が費用を負担し、助言した側は負担しません。費用の配分が非対称なまま渡される処方は、受け取る側にとって、従うかどうかが賭けになります。
さらに、この処方は動かなかったことの原因をすべて本人の内側へ配置します。範囲が明示されていないという構造上の欠落は、内側の状態を扱う処方の視野に入りません。視野に入らないものは、原因の候補にすら上がりません。結果として、構造の問題が毎回、性質の問題として処理されます。処理されるたびに、本人の側にだけ記録が残ります。
「主体的に動け」は、命令の形をしているために自己矛盾する
「主体的に動け」という要求には、形式上の問題があります。
主体的であるとは、行動の理由が自分の側にある状態を指します。そこへ外から命令が入ると、行動の理由の一部が「命令に応じること」になります。命令に応じて主体的になることは、形式として成立しません。
これは言葉遊びではありません。受け取る側では、実際に判断が発生します。「主体的に動け」と言われた人は、まず「どう動けば主体的だと評価されるか」を推定します。推定の参照先は、要求した人の期待です。期待に合わせて動いた結果は、外形上は主体的な行動ですが、決めているのは外側です。この要求は、それを満たそうとするほど満たせなくなる形をしています。
たとえば「もっと提案してほしい」と言われて、提案を出したとします。提案の中身は自分で考えたものです。ところが、提案を出すという行為の理由は、そう言われたことにあります。言われなくなれば、提案は止まります。中身が自前であることと、行為の理由が自前であることは、別々に成立します。
きっかけが外からでも、やっているうちに自分のものになる場合はあります。外から与えられた理由が実行の過程で内側に取り込まれていく現象は、動機づけの研究で扱われてきました。デシとライアンが体系化した自己決定理論は、この取り込みを、外的な理由から内的な理由への移動として扱います。移動が起きるかどうかを分けるのは、自律性・有能感・関係性という三つの条件の充たされ方です(Ryan & Deci, 2000, American Psychologist, 55(1), 68–78)。
重要なのは、取り込みが起きる条件として自律性が挙げられていることです。自律性とは、行動の原因の所在が自分にあると感じられている状態を指します。命令の形は、この条件を直接に損ないます。内容ではなく形式が効いている点が、この節の要点です。
外からの働きかけがすべて有害だ、という話ではありません。三つのうち有能感と関係性は、むしろ外からの関与によって支えられます。反応が返ること、居場所があること。どちらも一人では作れません。損なわれるのは自律性だけで、しかもそれは働きかけの中身ではなく形式で決まります。だから、内容を丁寧にしても形式が命令であるかぎり、同じ結果になります。
この要求は、要求した側の意図とは無関係に働きます。言った人は、たいてい相手の裁量を広げたいと思っています。意図は善意でも、形式は命令です。そして受け取る側に届くのは形式のほうなので、意図は伝達の途中で失われます。言った側からは、善意が伝わらなかった理由が見えません。見えないので、次はもっと強く言うことになります。
外から供給された理由は、内側の理由を押し出すことがある
外から理由が供給されると、もともと内側にあった理由が弱まることがあります。
経済学では、この現象は動機のクラウディングとして整理されています。フライとイェーゲンは2001年に、外的な介入が内発的な動機を押し出す場合と、逆に押し込む場合の両方があることを、実証研究を横断して整理しました(Frey & Jegen, 2001, Journal of Economic Surveys, 15(5), 589–611)。押し出しと押し込みのどちらになるかを決めるのは、介入の大きさではありません。受け手がその介入を、自分を統制するものとして読むか、自分の働きを認めるものとして読むか、という一点です。
この整理が効くのは、符号を反転させる変数が受け手の側の解釈に置かれているからです。同じ言葉が、統制と読まれれば動機を押し出し、承認と読まれれば押し込みます。そして「主体的に動け」は、要求の形をしている以上、統制の側で読まれやすくなります。言った側が承認のつもりでも、受け取る側の解釈が符号を決めます。
報酬は金銭に限りません。評価も、承認も、外的な理由として同じ位置に立ちます。「主体的に動け」という要求は、その要求に本人が応えたかどうかという評価軸を、既にあった行為へ後から付け加えます。軸が一本増えると、行為の理由も一本増えます。
たとえば、自分の関心で調べていたことがあり、それが仕事に役立ったとします。ここで「その調子で自主的に情報収集を続けてほしい」と言われると、次からその調査は、期待に応える行為としての側面を持ちます。関心そのものは消えません。ただし理由が二つになり、外側の理由のほうが観測されやすくなります。観測されやすいほうが、本人の自己評価でも前に出ます。
評価されて嬉しいなら動機は上がるはずだ、という反応は自然です。実際に上がる場合があります。フライとイェーゲンの整理でも、押し込みが起きる条件は明示されています。介入が承認として読まれ、受け手の自己決定の感覚を損なわない場合です。評価がどちらに転ぶかは、評価の内容ではなく、それが事前に条件として提示されているかどうかで大きく変わります。「これをやったら評価する」は条件であり、「これはよかった」は承認です。
この作用を根拠に「評価するのをやめるべきだ」とは言えません。有能感は三つの基本欲求の一つであり、外からの反応がそれを支えます。問題は反応そのものではなく、反応を得ることが行為の理由の位置へ移動することです。位置が移った後は、反応が止まった時点で行為も止まります。
押し出しは、もともと内側に理由があった領域にしか起きません。置き換えられる対象がないからです。したがって、外からの動機づけが害になるのは、既に内側の理由で動いていた領域に限られます。そして皮肉なことに、その領域こそが、外から見て「主体的に動いている」と評価される領域です。評価は、評価すると壊れる場所に、最も正確に当たります。
同じ構造は、自分に対しても成立します。これを終えたら休む、これを達成したら評価に値する。そう設定した時点では動機を補強するつもりですが、実行の理由の一部は、設定した報酬のほうへ移ります。自分で設定したという事実は、この移動を止めません。
動けない実体は、決めてよい範囲が書かれていないこと
実務で表に出やすいのは、二つ目の形——許可の所在が不明な状態——です。
組織であれ取引先との関係であれ、どこまでを自分の判断で決めてよいかの範囲は、多くの場合、明文化されていません。文書に無い範囲の縁は、越えた後にだけ姿を現します。地図がないのではなく、地図が事後にしか描かれない、という状態です。
この構造では、動くことに非対称な費用がかかります。動かずに待った場合、失敗は「消極的だった」という評価です。動いて範囲を越えた場合、失敗は「勝手にやった」という評価になり、しかも実害が発生します。費用が非対称なので、待つことが合理的な選択になります。この選択は、意欲の高さと無関係に成立します。
つまり、動けない状態は、判断として正しい可能性があります。主体性の不足ではなく、範囲の不可視性への適応です。
たとえば、クライアントとの仕事で、明らかに直したほうがよい箇所に気づいたとします。手を入れてよいかは契約に書かれていません。手を入れて喜ばれることもあれば、範囲外の変更として問題になることもあります。どちらになるかが事前に分からない状態では、確認を取るほうが合理的です。
確認を取ればいいだけではないか、という応答はもっともです。ただし確認には費用があります。確認の回数が多い人は、判断できない人として認識されます。そして認識が「主体性がない」という評価につながります。確認を取ることと、主体的でないと評価されることが、同じ行動から同時に生じます。この二つを同時に避ける手はありません。
範囲の明示は、いつでも要求できるわけではありません。相手の側にも範囲が言語化されていない場合、聞いても答えが出ません。この場合にできるのは、範囲そのものを聞くのではなく、実例を一つ挙げて可否を確認し、そこから外挿することです。一般則を求めるより、事例を一件通したほうが早く輪郭が出ます。
範囲が不明であること自体は、相手の怠慢とは限りません。発注する側にも、起きうる場合を先に列挙する手立てが無いからです。範囲は、事案が発生してはじめて決まることが多く、その意味で、範囲の不在は設計の失敗ではなく業務の性質です。だからこそ、待つ側の合理性は消えません。相手を責めても、費用の非対称は残ります。
そして、範囲が明示されると、その外側は明確に閉じます。不明な状態に含まれていた「越えてよいかもしれない」という余地は、明示の後には残りません。範囲を求めることが、裁量を狭める方向に働く場合があります。明示を求めるかどうか自体が一つの判断であり、その仕事で余地と確実性のどちらが効くかで答えが変わります。
覆される見込みがあると、調べること自体が止まる
範囲が書かれていないことの効き方は、動きが止まるところで終わりません。その手前にある、調べる動機のほうが先に止まります。
アギオンとティロールは1997年に、組織の中の権限を二つに分けました(Aghion & Tirole, 1997, Journal of Political Economy, 105(1), 1–29)。一つは形式的な権限——決める権利が契約や肩書の上で誰にあるか。もう一つは実質的な権限——実際に決定を動かしているのは誰か。二つは一致しません。決める権利を持つ側が、覆すための情報を持っていなければ、決定は事実上、情報を持っている側が動かします。
この整理の中核は、権限の分類ではなく、そこから出てくる結果のほうにあります。覆される見込みが高いほど、現場の側は情報を集める誘因を失う、という結果です。集めた情報が採用されないなら、集める費用は回収できません。回収できない費用は、合理的な主体なら払いません。
ここで観察されるのは、調べていない人、案を持っていない人、聞かれても答えを用意していない人です。外から見れば、これは主体性の欠如そのものに見えます。しかし実体は、費用の回収可能性についての見積りであることがあります。調べる習慣がないだけの人と、見積った結果として調べていない人は、外からは同じに見えます。
たとえば、提出した案が三回続けて別の形に差し替えられたとします。四回目に案を作り込む理由は、目に見えて弱くなります。弱くなるのは意欲ではなく、作り込みへの投資の期待収益のほうです。そして意欲が下がったという説明のほうが、外からは自然に見えます。
覆すこと自体が悪いわけではありません。決める権利を持つ側が、より広い情報を持っていることは実際にあります。問題は覆されることではなく、どういうときに覆されるかの基準が事前に示されないことです。基準が示されていれば、その範囲内で作り込む価値が計算できます。示されなければ、全部が賭けになります。
もう一つ、この機序には向きがあります。形式的な権限を持つ側が忙しいほど、実質的な権限は現場へ移ります。細かく確認する余裕がないので、届いたものがそのまま通ります。裁量は、意図して渡されるだけでなく、余裕の不足によって移ることも少なくありません。渡されたのではなく、届かなくなっただけ、という形です。
この移り方には副作用があります。余裕の不足で移った裁量は、余裕が戻ると予告なく回収されます。回収された側から見ると、それまで通っていたものが突然通らなくなります。何が変わったのかが分からないので、原因は自分の側の何かに帰されます。実際に変わったのは、相手の側の時間です。
発注する相手がいない場合、範囲を書くのも自分になる
一人で仕事をしていても、この構造は消えません。範囲を書く役と、その範囲の中で動く役が、別々の人ではなく同じ人に畳まれるだけです。「主体的に動け」を言う相手も、範囲を書く相手も、自分自身になります。
一人で働いている以上、外から命令は来ません。それでも、動けないという感覚は消えません。感覚が残るのは、決める自分と、実行する自分に分かれるからです。分かれた瞬間に、実行の側から見て、決定は外から来たものになります。
「やると決めたから」は、内側の理由ではありません。過去の自分が置いた条件であり、今日の自分にとっては所与です。そして条件に従うかどうかは、行動の原因の所在が自分にあるという自律性の要件を満たしません。形式が命令である以上、相手が自分であっても結果は同じです。
ストロッツは1955年に、将来についての計画が、実行の時点になると最適でなくなる場合があることを示しました(Strotz, 1955, The Review of Economic Studies, 23(3), 165–180)。時間の経過そのものが、選択肢の順位を入れ替えます。後にライブソンが、この入れ替えを双曲的な割引として定式化しています(Laibson, 1997, The Quarterly Journal of Economics, 112(2), 443–478)。
ここで効いているのは、意志の弱さではありません。決めた時点の自分と実行する時点の自分が、違う順位を持っているという構造です。同じ人でも、時点が違えば別の判断者になります。
たとえば、毎週発信すると決めて、三週目に止まるとします。決めたのは自分です。ところが三週目に机に向かう自分にとって、その決定は外から来た予定です。従えば従属であり、破れば自己管理の失敗として処理されます。どちらに転んでも、決めている位置は今日の自分の外側です。
自分で決めたことなら自律的なのではないか、という見方は、決めた瞬間については正しく成立します。問題は、決定と実行の間に時間が空くことです。時間が空くと、決定は条件として固定され、実行の時点では所与になります。自律性は決定の瞬間にあり、実行の瞬間には残っていません。
この分裂をなくすことはできません。計画と実行を同時に行えないからです。扱えるのは、決定の中身のほうです。何をするかだけを決めた場合、実行時には条件しか残りません。なぜそれをするかまで決めておくと、実行の時点で理由のほうを参照できます。参照できれば、その場でもう一度判定し直せます。
理由を残しておくことにも限界があります。決めた時点の理由が、数週間後にも同じ重みで感じられるとは限らないからです。理由は保存されますが、その理由に対する切実さは保存されません。できるのは、実行の時点でもう一度判定できる状態を作っておくところまでです。判定した結果、やめるという結論が出ることも含めて、それが決めている状態です。
事業の現場では、動かないことが姿勢として読まれる
事業の現場で「主体性が足りない」と読まれるのは、三つの形です。
第一に、提案をしないことです。言われたことだけをやっているように見えます。実際に起きているのは、提案が受け入れられる範囲が不明なことです。範囲外の提案は、無料の追加作業として処理されることがあります。
第二に、値上げを切り出さないことです。条件を自分から動かさないので、受け身に見えます。実際に起きているのは、交渉を始めた後に相手がどう出るかの分布が分からないことです。分布が分からない場面では、現状維持のほうが結果のばらつきが小さくなります。
第三に、新しい取り組みを始めないことです。同じ仕事を続けているように見えます。実際に起きているのは、始めたものの成否が数か月から数年たたないと分からないことです。判定が返らない行動は、実行の理由を内側から供給し続ける必要があります。
どれも、動かないことが情報の不足に対する合理的な応答になっているという点で一致します。姿勢の問題として処理すると、この情報の不足が扱われないまま残ります。残ったまま次の期間へ持ち越されるので、同じ観察が何度も繰り返されます。
情報が揃うのを待っていたら永久に動けない、という指摘は正しく、実際に情報がすべて揃うことはありません。扱えるのは、動く前に不足している情報を名指しできるかどうかです。名指しできれば、そのうち手に入るものと、原理的に手に入らないものを分けられます。手に入らないと分かったものについては、待つ理由が消えます。消えた時点で、動くかどうかは別の判断になります。
先に当てるなら、第二です。条件の変更は、相手が一人であり、結果が数週間で返ります。第三は判定が遅いので、最初に扱う対象には向きません。順番を選べる場面で、判定の速いものから当てるのは、費用の回収可能性の問題です。覆される見込みが調べる手を止めるという機序を、自分の側で使う形になります。
三つとも、動かないことが最適である期間が実在します。提案も、値上げも、新しい取り組みも、関係が浅い段階では失敗の費用が大きくなります。問題は動かないこと自体ではなく、最適な期間が過ぎた後も同じ応答が続くことです。そして期間が過ぎたことは、外からは何も通知されません。通知がないので、更新の機会は自分で作るしかありません。
動き始めると、動かなかった期間の解釈が変わります。動けるようになった後から振り返れば、それまでの期間は単に「動かなかった期間」として見えます。構造の問題だったという理解は、動けるようになった時点で失われやすくなります。失われると、同じ構造に置かれた他の人に対して、姿勢の問題として説明することになります。かつて自分が受け取って効かなかった助言を、そのまま渡す側に回るわけです。
決めてよい範囲が見えたことは、どこで確かめられるか
範囲が見えるようになったかどうかは、三つの場所で確かめられます。
第一に、動いた件数ではなく、範囲を言える件数を見ます。
直近の判断をいくつか拾って、それぞれ「これは自分の側で決めてよいことになっていたか」を書きます。決めてよかったもの、決めてよくなかったもの、そして範囲が不明なもの。三つ目が減っていれば、輪郭は見えるようになっています。動いた件数は、この判定には使いません。
第二に、動かなかった件について、不足している情報を言えるかを見ます。
動かないという選択そのものは問題ではありません。問題は、動かない理由が「なんとなく」で止まっている場合です。「範囲が分からない」「結果が読めない」と名指しできるなら、それは判断です。名指しできないなら、既定値をそのまま受け取っただけです。この二つは、外から見ると同じ「動かない」に見えます。
第三に、他人からの評価が変わったかではなく、条件を変えたときの答えを見ます。
「もしこの取引先が明日いなくなったら、この決め方を続けるか」と自問します。答えが変わるなら、その決め方は相手の条件に依存しています。変わらないなら、依存していません。外からの評価は、この判定には使えません。評価する側は行動しか見ておらず、範囲がどこにあったかは見えないからです。
どこにも、意欲や姿勢を測る項目はありません。測っているのは、範囲の可視化と、不足の言語化と、条件を変えたときの応答です。主体性は量ではないので、増えたかどうかは判定の対象になりません。
待てば受け身と言われ、進めれば勝手にやったと言われる。この板挟みが解けなかった理由は、二つの評価が別々の基準から来ていたことにはありません。どちらの評価も、決めてよい範囲が書かれていない場で下されていました。範囲がなければ、動いても動かなくても、評価する側が事後に形を決められます。板挟みが立っていたのは、二つの評価の間ではなく、範囲の空白の上です。
当事者意識を持てという助言が効くのは、範囲が既に見えている人に対してです。見えていない人にとっては、同じ助言が費用の負担を一方的に増やします。この助言と、範囲を確かめよという見方を分けているのは正しさではなく、適用できる条件のほうです。そして条件は、本人の内側ではなく、その仕事の設計の側に置かれています。
範囲が書かれていない場は、これからも無くなりません。事案が起きてはじめて決まる範囲のほうが、実務では多いからです。変えられるのは、その場で自分が何を持っているかです。範囲が不明であること自体を、動かない理由としてではなく、確かめる対象として扱えるかどうか。残るのは、どの一件で確かめるかという選び方だけです。
行動が意思決定の結果として出てこないという順序そのものは行動できないのは意志の問題ではないが扱っています。動く理由を外から供給し続ける設計が何を失うかは認知科学で読み解く「変われない」が、決めるための基準を自分の側に置き直す工程は決断できないのは性格ではなく、判断を手渡してきた構造の帰結が引き受けています。
同じ場所を別の入口から扱った記事が三本あります。断る判断が相手の側へ移る構造は断れないのは優しさでも弱さでもないで、言わなかったことが場でどう計上されるかは意見が言えない場の構造で、判断の入口そのものが消える仕組みは思考停止は怠慢ではないで扱っています。






