はじめに
仕事がうまくいかない。締切に追われ、余裕がなくなっていく。そんなとき、多くの人が同じ結論にたどり着きます。自分の自己管理が甘いからだ、と。
そして、娯楽を切り詰めます。「遊んでいる場合ではない」と自分を叱り、楽しみを罰のように取り上げる。もっと自分を律すれば、事態は好転するはずだと信じて。
けれど、娯楽を断つことと仕事の成果のあいだに、直接の関係などありません。切り詰めても、状況はいっこうに変わらない。それでも「まだ足りない」と、さらに自分を締めつけていきます。
自己管理の技術は、すでに多く語られています。本記事が置くのは、その一段手前の問いです。「自己管理ができていない」という感覚が生まれるとき、そこで何がすり替えられているのか、その構造です。
結論を先に示します。構造の側にある問題が、個人の心の強さの問題へ付け替えられているのです。
📖 目次
「耐える力」を称えることは、状況を問わずに済ませること
近年、職場でよく耳にするようになった言葉があります。レジリエンスです。困難から立ち直る力、逆境に耐える心の強さ、といった意味で使われます。心の持ち方を整える研修が導入され、社員が自分の心を整えることが支援されます。一見すると、これは働く人の幸福を気づかう取り組みに見えます。
けれど、ここで一歩立ち止まって、この語りの前提を確かめてみる必要があります。レジリエンスとは、要するに、過酷な状況に耐える個人の能力のことです。それが称えられるとき、暗黙のうちに前提されているのは、状況のほうは過酷なままだということです。
長時間の労働、重い責任、絶え間ない要求。これらの状況そのものを変えるのではなく、その状況に耐える個人の能力を高めよ、と促す。問題の所在が、職場の構造から、個人の心の強さへと移されています。
ここで援用したいのが、経済学者の宇野弘蔵が論じた、労働力の再生産という考え方です[宇野, 1964]。人が働くためには、その心身が日々回復され、翌日もまた働ける状態に戻されなければなりません。休息し、栄養を取り、気力を取り戻す。この、働く力を日々作り直す営みを労働力の再生産と呼びます。
問題は、この再生産にかかる費用と責任を、誰が負担するのかです。本来、人を酷使して疲弊させたなら、その回復のための条件を整えるのは、働かせる側の責任に含まれるはずです。
反論を封じる仕掛けが、あらかじめ備わっている
この付け替えが巧妙なのは、反論を封じる効果まで備えている点にあります。
状況の過酷さを訴えれば、それは耐える力が足りない証拠だと見なされかねません。耐える力こそが称えられる場では、耐えがたさを口にすること自体が、弱さの告白になってしまいます。こうして、構造への異議は、個人の心の問題へと静かに回収されていきます。声を上げるべき不満が、自分を鍛え直すべき課題へと、いつのまにかすり替えられているのです。
ここで、はっきりさせておきます。これは特定の企業や個人を告発する話ではありません。心を整える取り組みそのものに価値がないと言いたいのでもありません。問うているのは、個人の善意ではなく、その語りが果たしている機能です。善意から導入された取り組みであっても、それが再生産の費用を個人へ移す機能を持つなら、その機能は残ります。語り手の動機と、その語りが果たす機能は、別の次元の話なのです。
雇われていなくても、同じ回路は作動する
この構造は、雇用の現場だけのものではありません。自分で仕事を進めている人にも、そっくり同じ回路が作動します。
うまくいかない原因を、状況や設計ではなく、自分の自制心の不足に求める。だから、もっと自分を律すれば好転するはずだと信じ、楽しみを断つ。けれど、それは解決ではありません。解くべき問題を取り違えたまま、自分を罰しているだけです。
なぜ、人は自分を罰したくなるのでしょうか。罰には、奇妙な安心があるからです。自分を罰しているあいだは、少なくとも何かをしている気になれる。手をこまねいて待っているより、自分を痛めつけているほうが、まだしも前に進んでいる気がしてしまうのです。
けれどそれは錯覚です。罰は、何も生みません。ただ、不安を一時的に紛らわせるだけです。そして効き目が切れれば、また次の罰が要ります。痛みで痛みを上書きしているにすぎません。
▸ この自己処罰の回路がどこで断たれるかは、習慣化は意志で回すものではないで扱っています。
まとめ:問いを、心の強さから設計へ戻す
「自己管理ができていない」という感覚が生まれるとき、そこでは構造の側にある問題が、個人の心の強さの問題へ付け替えられていました。耐える力を称えることは、耐えるべき状況を問わずに済ませることと表裏一体だったのです。
だから、必要なのは自制心を鍛えることではありません。問いを、心の強さから設計へ戻すことです。いま自分が「管理できていない」と感じているそれは、本当に管理の問題なのか。それとも、負荷そのものの設計の問題なのか。
自分を律する前に、この一問を挟む。それだけで、罰の回路は一度止まります。楽しみを取り上げることが立て直しの第一歩だという思い込みは、そこで崩れます。この個人への帰責という論点の全体像は、ストイックであるほど自由から遠ざかる理由にまとめています。
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参考文献
【学術論文・理論】
- 宇野弘蔵『経済原論』(1964)岩波書店
- Foucault, M. Surveiller et punir(1975)(邦訳『監獄の誕生——監視と処罰』)






