資質の一覧を数えて、自分は向いていないと結論した方へ/観察の対象になっているのは、いま機能している人だけである

リーダーの資質は存在しない——性格ではなく、自分の性質から決まる型の話

リーダーの資質は、備えるべき性質の一覧として説明されます。判断力。傾聴。責任感。公正であること。感謝と思いやり。前向きであること。十個並べた記事もあれば、七つに絞った記事もあります。

一覧に並んでいる性質は、どれも良いものです。判断が早い人のほうが物事は進みますし、人の話を聞く人のほうが情報は集まります。

実害は、その一覧を読み終えた直後に出ています。場を作ろうと考えた人の少なくない数が、最初の段階で降ります。降りる理由は、能力の不足として経験されます。人前で話すのが苦手だ。まめに連絡できない。人を引っ張る性格ではない。どれも事実の記述で、本人にとっては正確です。

ところが、照合されている相手は自分の能力ではありません。明るく、人前に立ち、全員に声をかけ、場を盛り上げる人という像です。像と自分を比べたとき、判定は必ず足りない側に出ます。そして像の側が固定されているので、何を身につけても判定は変わりません。

この形式には、答えの入っていない問いが残っています。自分がその一覧のいくつを満たしているかを数えたとして、次に何をすればよいのか。多くの場合、答えは「身につけましょう」になります。身につける対象が性格である場合、この助言は実行できません。性格は、やり方を変えれば変わるものではないので、努める先がありません。実行できないので、読んだ人は一覧と自分を照合し、足りないという判定だけを持ち帰ります。

答えの出ない問いもあります。その場を担うべきかどうかは、この記事では決まりません。型が合っていて、示していることを実際に通っていて、相談も来ている状態でも、続けるかどうかは別の判断です。担い手の側の条件からは、その判定が出てきません。

そして、判定の物差しを取り替えても、降りる人がゼロになるわけではありません。向いていないという判定そのものは、正しく出ることがあります。変わるのは、降りる理由が実在するものになるかどうかだけです。像と照合して降りた人は、何が合わなかったのかを持ち帰れません。持ち帰れないので、二度目に別の形を試すこともできません。

順に、一覧がどうやって作られたか、研究の側が約八十年前に到達していた地点、像を作っている帰属の構造、そして型が選ぶものではなく自分の性質から決まるという分界を扱います。最後に、合っていない箇所を自分の記録から見つける方法を置きます。

資質とは何か、に答えている説明

リーダーとは、定めた目的に到達するために周囲を導く人のことだと説明されます。導く役割を果たすために必要な性質が「資質」と呼ばれます。

一覧が示されます。的確な判断力。コミュニケーション能力。傾聴の姿勢。問題が起きたときの冷静さ。責任感。公正さと誠実さ。前向きな姿勢。周囲への感謝と思いやり。

中心に置かれるものも示されます。多くの整理で、メンバーを管理する技能と、メンバーと意思疎通する技能の二つが挙げられます。この二つが本質だ、という書き方をされることもあります。

身につけられることも強調されます。資質は生まれつきのものではなく、育成によって身につけられる。研修の案内が続くのは、この主張があるからです。

具体的な人物が引かれることもあります。実在の経営者の言葉を引いて、感謝や利他が資質の中心にあると説明する形です。

説明としては、どれも当たっています。判断が遅い人の下で物事が進まないのは事実ですし、意思疎通が取れない集団が機能しないのも観察されることです。資質が育成で伸びる部分を持っていることも動きません。

一式が共通して置いている前提は、一つです。一覧に並んでいる性質を多く持っている人ほど、担い手として適している。順序としては、性質が先にあり、その結果として担い手になれる、という向きです。

この前提は、明示されることがほとんどありません。書かれているのは性質の名前と、それが必要である理由だけです。必要であることと、それを先に持っていなければ始められないことは、別の主張です。一覧の形式は、二つを一つの読み方に畳みます。畳まれた側が読者に届き、そこから自己判定が始まります。

性質と結果に関係が無いという話ではありません。関係はあります。問題は、その関係が「持っているから担い手になれる」という向きで書かれている点です。

向きが逆である可能性が、一覧の側では検討されていません。担い手として動いた結果、そういう性質が身についたのかもしれない。あるいは、その状況がそういう性質を要求したのかもしれない。

向きがどちらでも実務上は同じではないか、という読み方はできます。同じになりません。性質が先だとすると、いま持っていない人は始められないことになります。状況が先だとすると、始めた後に身につくことになります。始めてよいかどうかの判定が、正反対に出ます。

一覧が丁寧に作られているほど、自己判定の精度が上がったように感じられます。十項目のうち三つしか当てはまらない、という判定は、具体的で説得力があります。判定の精度は上がっていますが、判定している対象が正しいかは、一覧の側では検証されていません。

項目が増えると、この効果は強くなります。七項目の一覧より十項目の一覧のほうが、当てはまらない項目が多く出ます。当てはまらない項目の数が、そのまま不足の量として読まれます。読んだ側にとっては、一覧が詳しくなったぶん判定が厳しくなったことになります。詳しさは書き手の親切ですが、受け取る側では別の働きをします。

一覧は、うまくいった人を後から記述したものである

資質の一覧は、多くの場合、うまくいった担い手を観察して作られています。

観察の対象になっているのは、いま担い手として機能している人です。機能しなかった人は、観察の対象に入りません。入らないので、その人たちが何を持っていたかは記録されません。

この構造では、二つのことが区別できません。第一は、その性質を持っていたから機能したという場合。第二は、その性質を持っていても機能しなかった人が同じくらいいる場合です。

後者が実際にどれくらいあるかは、機能した人だけを見ていても分かりません。分からないのに、一覧は「これを持っている人が機能する」と読めるように書かれています。

見えている側だけを見ると誤った結論が出る、という構造は、顧客の声で扱ったものと同じです。記録が正確でも、記録された集合が偏っていれば、そこから引き出した結論は偏ります。

「粘り強さ」が資質として挙げられているとします。粘り強く続けて成立した人は観察されます。粘り強く続けたが成立しなかった人は、その領域から離れているので観察されません。一覧に「粘り強さ」が入るのは、この非対称の帰結としても説明できます。

それでも、実際に機能している人に共通点があるなら参考にはなる、という反応は正しい指摘です。参考にはなります。ただし、参考にする方向が違います。「これを持っていない自分は向いていない」という使い方はできません。使えるのは「機能している場では、こういう性質が要求されているらしい」という、状況の側の情報としてです。

すべての一覧が偏っているという話ではありません。機能しなかった集団も含めて調べた研究は存在します。その種の研究では、結論の形が変わります。

そして、偏っているかどうかは、一覧を見れば判別できます。「機能しなかった人にも同じ性質があった」という記述が入っているかどうかです。入っていない一覧は、片側だけを見ています。

一覧を疑い始めると、担い手の性質について何も言えなくなるように感じられます。実際には、言えることは残ります。残るのは、性質の側ではなく、その場が何を要求しているかの側です。

要求の側から言い直すと、記述の宛先が変わります。「傾聴できる人が向いている」ではなく「この場は、参加者が自分から書かない状態から始まるので、聞き出す作業が要る」という形になる。後者は、その作業を誰がどうやるかを開いたままにします。聞き出す作業は、対面で聞くこともできれば、書いて答えてもらうこともできます。性質の名前で書くと、この選択肢が閉じます。

特性そのものではなく、状況との関係が問われてきた

研究の側では、この問いは少なくとも八十年近く扱われてきました。

ラルフ・ストッグディルは1948年、1904年から1947年までに行われた124件の研究を整理しました(Stogdill, 1948, The Journal of Psychology, 25(1), 35–71)。個人の特性と、集団の中で指導的な立場に立つことの関係を扱った研究です。

整理の結論は、特性の一覧を確定することではありませんでした。「人は、いくつかの特性の組み合わせを持っているという理由によって指導者になるのではない」というのが、そこで述べられた結論です。特性が意味を持つのは、その人が置かれている状況との関係においてである、という形に整理されています。

対象になった研究は、既にある集団の中で誰が指導的な立場に立つかを扱ったものが中心です。一人で事業をしている人が場を作る場面を扱ったものではありません。

それでも、この結論の形は使えます。特性の一覧を作る試みが、その方向では答えに至らなかった、という事実のほうです。約八十年前に一度たどり着いた地点に、いま流通している一覧は戻っています。

「決断力がある人がリーダーに向いている」という命題は、状況を指定しないと真偽が決まりません。情報が揃っていて判断が急がれる状況では、決断が早いことが効きます。情報が足りず、決めると後戻りできない状況では、決めないことのほうが効きます。

古い研究の結論をいまの話に当てはめてよいのか、という疑問は残ります。当てはめているのは結論そのものではなく、結論の形です。特性の側から答えを出そうとして出なかった、という経緯は、いま同じ形式の一覧を読むときの注意になります。扱えるのは、確かめた範囲だけです。

「資質は関係ない」という主張ではありません。関係はあります。関係の形が、「持っているかどうか」ではなく「その状況が要求するものと一致しているかどうか」だという話です。

したがって、問う順序が変わります。自分が何を持っているかを先に問うのではなく、自分が作ろうとしている場が何を要求するかを先に問うことになります。

状況の側から問う形にすると、答えが一般化できなくなります。「担い手に必要なもの」を一行で言えなくなります。言えなくなることは不便ですが、言えていた頃の一行が、実際には何も指定していなかったという話でもあります。

「資質がある人」という像は、誰が作っているのか

明るく、人前に立ち、場を盛り上げる人という像は、観察されたものではなく、二つの加工を経て組み立てられたものです。うまくいった人を後から記述し、状況を落とし、性質だけを取り出したものです。したがって、像は実在しません。

実在しないものと自分を比べているので、判定は必ず「足りない」に出ます。像そのものを動かさないかぎり、身につけた側をいくら足しても判定は動きません。

像の出所には、もう一つ古い層があります。社会学者のマックス・ヴェーバーは、支配が正当だと受け取られる型を分類する中で、指導者の特別な資質は、その人が備えている性質としてではなく、従う側がその人に帰属させているものとして定義しました(マックス・ヴェーバー『経済と社会』1922年)。カリスマという語は、もともとこの意味で使われています。

帰属という言い方が効きます。性質が本人の中にあるなら、測ることも身につけることもできます。従う側が帰属させているものなら、本人の側には最初から何も無い。「カリスマになる方法」が書けないのは、書き手の力量の問題ではありません。帰属先を指定する権限が、書き手にも本人にも無いからです。

人前で話すのが苦手な人が、文章だけで場を運営することはできます。全員に声をかけない代わりに、書いたものを全員が読める場所に置く形です。この形が像に含まれていないので、選択肢として浮かびません。

向いていないなら無理にやらなくてよい、という判断は正しい形です。問題は、向いていないという判定の根拠が像だという点だけです。根拠が像でなく、自分の実際の性質と、作ろうとしている場の要求との照合であれば、その判定は正しくなります。判定を否定しているのではなく、判定に使う物差しの話をしています。

「誰でもできる」という話ではありません。実際に、自分の性質に合わない形の場は続きません。言えるのは、合わない形が一つ確定しただけでは、他の形も合わないことにはならない、ということです。

そして、励ましは効きません。「向いていなくても大丈夫」と言われると、像はそのまま残ります。残っている限り、本人は例外として扱われているだけだと理解します。効くのは、像そのものが後から作られたものだと分かることです。

像を外すと、目標にする対象が無くなります。誰かのようになる、という形の目標が使えなくなります。代わりに要るのは、自分の性質を先に把握する作業です。把握は、誰かと比べる作業より地味で、時間がかかります。

型は選ぶものではなく、自分の性質から決まる

担い手の振る舞いには、少なくとも二つの形があります。

第一の形は、少し先を歩く形です。自分が先に通った経路を示すことで、後から来る人が自分の先を見られる状態にします。距離があるので、日常的なやりとりは少なくなります。

第二の形は、同じ速度で歩く形です。参加者と同じ位置にいて、一緒に進みます。距離が近いので、やりとりの量は多くなります。

この二つは、選ぶものではありません。どちらが自分にとって無理のない形かで決まります。理由は単純で、合わない形は続かないからです。

そして、二つは例示であって分類ではありません。実際の形は無数にあり、二つの中間や、場面によって使い分ける形もあります。二つに分けたのは、選べるものではないという点を示すためです。

近い距離でのやりとりが得意でない人が、同じ速度で歩く形を選んだとします。最初の数か月は成立します。やりとりの量が一定を超えたところで、返信が遅れ始めます。遅れは性格の問題ではなく、その形がその人の性質と合っていないことの現れです。

市場で受けている形に合わせたほうがよい、という考え方も出ます。受けはします。受ける形を選んだ場合、その形を維持するために自分を演じることになります。演じている状態は、書く量の変動と返答の間合いに、現れやすくなります。短期の反応と、続くかどうかは、別の軸です。

性質は固定ではありません。何年か続けるうちに、無理だったことが無理でなくなることはあります。言えるのは、いまの時点で無理なことを前提に設計しないほうがよい、ということだけです。

判定の材料は、過去の記録にあります。これまでどういう関わり方が続いていて、どういう関わり方が途切れたか。続いた形が、その人の性質に合っていた形です。

そして、型は場の側の設計と連動します。先を歩く形を取るなら、通った経路が読める場所に残っている必要があります。同じ速度で歩く形を取るなら、やりとりが起きる場所が要ります。型を決めずに場の形だけを先に作ると、後から自分の型に合わない運用が固定されます。

自分の性質から決めると、場の形が世間で言われている形と違うものになります。違うので、比較の対象がありません。比較できないことは不安ですが、比較できる形は、比較できる程度に同じ形だということでもあります。

比較できないことには、実務上の費用もあります。うまくいっているかどうかを外の事例で確かめられないので、判定を自分の記録だけで行うことになります。記録が短いあいだは、その判定が効きません。始めた直後は、合っているかどうかを判断する材料が両方とも足りない状態が続きます。この期間を、合っていない証拠として読まないことになります。

合わない型を演じると、内容ではなく書く量と間合いに出る

担い手が自分と違う型を演じている場合、それは文章に出ます。

出る場所は、内容ではありません。内容は整えられます。出るのは、書く量の変動と、返答の間合いです。

機序は単純です。演じている形は、その人にとって余分な費用がかかります。費用がかかるので、余裕があるときは維持でき、余裕が無いときに維持できません。維持できない時期が定期的に来ます。

参加している側は、その変動を読みます。言葉にはできなくても、「最近は無理をしている」という判定が動きます。判定が動くと、こちらの言っていることの信頼度が下がります。

この構造は、文章の側から見ると、セールスコピーの原則で扱った不一致と同じ形です。手法として実行したものは、手法として伝わります。

発信の頻度を上げると決めて、週に三回書くことにしたとします。二か月は続きます。三か月目に間が空き、空いた後の文章に「久しぶりの更新です」という一行が入ります。この一行が、頻度が自分の型と合っていなかったことを報告しています。

無理をしてでも続けることで型が広がるのではないか、という期待は、条件付きで当たります。広がるのは、その形に価値を感じていて、費用を払う理由が自分の側にある場合です。受けるからという理由で払っている場合は、広がらずに消耗します。見分けは、誰のためにその形を選んだかで付きます。

変動があること自体は問題ではありません。誰にでも忙しい時期はあります。問題になるのは、変動の周期が形の維持費用と一致している場合です。一致しているかは、記録を並べれば分かります。

そして、演じていることを本人が自覚していないことがあります。自覚していないので、変動の原因を「時間が無かった」と説明します。説明が正しいかどうかは、時間が空いた時期に何を優先したかを見ると分かります。

演じない形を選ぶと、こちらの弱い部分が場に見えます。見えることは、担い手としての権威を下げるように感じられます。実際に下がるのは権威で、上がるのは「やっても大丈夫」の側です。どちらを供給したいかで、どちらを取るかが決まります。

そして、二つは同時には最大化できません。権威は距離があるほど働き、「やっても大丈夫」は距離が近いほど働きます。同じ振る舞いが、片方を上げると片方を下げます。どちらが要るかは場の側で決まっており、担い手の好みでは決まりません。人が集まって互いに試す場では後者が要り、答えを受け取りに来る場では前者が要る。自分の型を決める前に、作ろうとしている場がどちらなのかを決めることになります。

影響力は、自分が先に通ったという事実の副産物である

人が誰かの言うことを受け取るとき、受け取る理由は複数あります。

役職による理由があります。決定権を持っている相手の言うことは、受け取らざるを得ません。任意で集まった場には、この理由がありません。

専門性による理由があります。その領域を知っている相手の言うことは、参考になります。これは任意の場でも働きます。

そして、もう一つあります。その人が、自分が言っていることを実際に通ってきたという事実です。この理由は、言葉では作れません。

三つのうち、任意の場で最も強く働くのは三つ目です。理由は、参加者が確かめられるからです。専門性は外から検証しにくいのに対して、通ってきたかどうかは、その人の過去の記録に現れます。

「発信を続けたほうがよい」と書く人が二人いるとします。一人は、自分が三年間書き続けた記録を持っている。もう一人は、その主張の根拠だけを持っている。主張の内容が同じでも、受け取られ方が変わります。

先に通っていない領域については何も言えないことになるのか、という懸念は当たりません。言えます。言い方が変わるだけです。通っていない領域については、通った人の記録を紹介する形になります。自分の経験として書くか、他人の記録として書くかの違いで、どちらも成立します。成立しないのは、通っていないことを通ったように書く場合だけです。

先に通っていることが、常に有利とは限りません。通った経路が特殊であるほど、後から来る人には再現できません。再現できない経路を示すと、参加者は「あの人だからできた」と判断します。判断されると、影響力は憧れに変わります。

憧れは、行動を生みません。行動を生むのは、自分にも通れそうだという判定のほうです。したがって、示すべきなのは通った結果ではなく、通った過程の再現できる部分です。

この出所には、時間がかかるという性質もあります。役職と専門性は、提示した時点で働きます。通ってきたという事実は、通るのにかかった時間だけかかっています。短縮する方法は無いので、始めた直後の担い手には、この理由が使えません。使えない期間にできるのは、いま通っている最中であることを、そのまま記録として出すことです。通り終わった記録より弱いものの、後から遡って作れない点は同じです。

過程を示すことは、うまくいかなかった部分も示すことになります。示すと、こちらの判断が甘かった箇所が記録として残ります。残った記録は、後から都合よく書き換えられません。影響力の出所が事実である以上、事実の不都合な部分も一緒に付いてきます。

自覚は当てにならない——判定は外側にしかない

自分がどういう型で振る舞っているかは、自分では正確に分かりません。

理由は、こちらが見ているのが意図だからです。どういうつもりで書いたか、どういうつもりで返したかは、自分にしか分かりません。受け取る側が見ているのは、意図ではなく振る舞いです。

二つがずれることは、起きます。距離を置いているつもりが冷たいと受け取られ、対等のつもりが上から見ていると受け取られます。ずれていること自体は、こちらからは観測できません。

したがって、判定は外側から取ることになります。最も信頼できるのは、普段から接している人がこちらをどう見ているかです。新しく会った人の印象より、継続して見ている人の印象のほうが精度が高くなります。

「参加者と対等でありたい」と考えて運営しているとします。参加者に聞くと、対等だという答えが返ってきます。この答えは、こちらが運営者であるという関係の中で出ています。関係の外にいる人——以前参加していて離れた人や、近い立場の同業者——のほうが、精度の高い観察を持っています。

聞いて回ることがそもそも不自然ではないか、という抵抗は当たります。改まって聞く必要はありません。取れる材料は、既に手元にあります。どういう相談が来るか、どういう相談が来ないか。来ない種類の相談があるなら、そこには「この人には言えない」という判定が働いています。

外側からの観察も完全ではありません。見ている人の側にも、その人の枠があります。だから、一つの方向では足りません。一人の印象を自分の像として採用すると、その人の枠を自分の性質だと思い込みます。

そして、取った材料は、自分を修正する材料としては使いません。使うのは、自分が想定している型と、実際に届いている型がずれているかを知るためです。ずれていない場合、修正は要りません。

取る頻度も決まります。常時気にしていると、副作用が出ます。年に一度か二度、こちらの型を確認する機会として取れば足ります。型は短期間では変わらないので、それ以上の頻度で取っても、材料は増えません。

外からどう見えているかを気にし始めると、振る舞いが外向きに寄ります。寄ると、演じる側へ戻ります。取る目的を「合わせるため」ではなく「知るため」に固定しないと、外側から取る作業そのものが、演じることの一部になります。

固定できているかは、材料を受け取った直後の動きで分かります。知るために取っていれば、受け取った後に何も変えません。合わせるために取っていれば、次の一件から振る舞いが動きます。動いた場合、その振る舞いは相手の枠に合わせたものであって、自分の型ではありません。年に一度か二度という頻度は、この判別を可能にするためにも要ります。頻度が高いと、変えたのか変えていないのかが、自分でも追えなくなります。

合っていない箇所は、外側の記録に出る

自分が担い手として働いているかは、参加者の評価を聞かずに、自分の記録から判定できます。評価を聞かずに済むのは、合っていない箇所が記録の側に痕跡を残すからです。

第一の確認は、自分が続けている関わり方と、途切れた関わり方を並べることです。

続いているものが、自分の性質に合っている形です。途切れたものを続けようとして続かないなら、そこは型の問題であって、意志の量の問題ではありません。並べるだけで判定できます。

第二の確認は、いま自分が示していることを、自分が実際に通ったかを一件ずつ確かめることです。

通っているものと、通っていないものが分かれます。通っていないものを自分の経験として書いていないかを見る。書いていれば、そこは書き直す対象です。

第三の確認は、参加者から来ない相談の種類を書き出すことです。

来ない種類があるなら、そこに届いていない型があります。来ないことは何も起きないので、意識して書き出さない限り、永久に観測されません。

三つとも、性質の一覧との照合をしていません。照合すべき対象は一覧ではなく、自分の記録と、場の側の要求だからです。

一覧のいくつを満たしているかを数えた後に、何をすればよいのか。答えは、数える対象を一覧から自分の記録へ移すことです。一覧を数えた結果が何を意味するかは、一覧の側が保証していません。保証していないものを精度よく数えても、精度が上がるのは判定のほうだけです。

代わりに数えるものが、記録の側の三つの確認です。三つはいずれも自分の記録を数えており、像を参照していません。そして、像を参照しなくなった時点で、「向いていない」という判定は消えるのではなく、意味が変わります。合わない形が一つ確定した、という情報になります。情報であれば、次に試す形が決まります。

三つが答えないことも、はっきりしています。どれも、その場を担うべきかを判定しません。判定できるのは、いま合っていない箇所がどこかだけです。箇所が分かっていれば、形を変えるのか、相手を変えるのか、規模を変えるのかを選べます。分かっていなければ、変えられる対象は自分の性質しか残らず、そこは変えられません。性質を変えようとして止まっている状態が、場を作る前に降りた人の位置です。位置が同じでも、そこに至った経路は二つあります。像と照合して降りたのか、記録と照合して一つの形を外したのか。前者は次が無く、後者には次があります。

型が決まると、場の側の設計も決まります。その場が参加者に何を供給しているかは場づくりが供給する二つの確信、自分以外の手を入れるときの順序はチーム作りの順序、会費を取る形にしたときに変わるものは会員制ビジネスが動き続ける条件にあります。合う形を選び直せるのは、一緒にいる形が一つではないからです。その違いがどこから来るのかはコミュニティ運営の全体像にあります。

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