上位記事の見出しを集めて、構成を作っている方へ/一覧は構成ではなく、順序を決めている原理のほうが構成である

記事の構成とは項目の並びではなく、論証の順序そのものを指す

記事構成の手順を最後まで実行して手元に残るのは、項目の一覧です。キーワードを決め、上位十件の見出しを確認し、必要な項目を洗い出し、書式の欄を埋める。出力は、扱うべき項目が並んだ表です。

一覧は構成ではありません。構成とは、項目を並べる順序を決めている原理のことで、一覧そのものには、順序を決める根拠が入っていません。

だから、集めた項目を並べ替える段で判断が要ります。ところが、その判断の基準は手順のどこにも書かれていません。書かれていないまま「上位を参考に」とだけ言われるので、多くの場合、上位と同じ順序が採られます。

順序を決めている原理は一つです。その記事が言おうとしている一つの主張を、読み手が受け取れる段へ割った並び。項目の重要度でも、検索の頻度でもありません。

先に、ここで引き受ける問いを並べます。第一に、上位十件から項目を集める作業は、なぜ構成を出力しないのか。第二に、見出しを分類名から問いへ変えると、何が判定できるようになるのか。第三に、記事の長さを決めているのは主題の大きさではなく何なのか。

引き受けられない問いも書いておきます。見出しをいくつにするか、一つの見出しに何字書くか、どこまで前提を埋めるか——ここに配分表は付きません。扱っている主張の段数と、読み手との前提の差で変わるからです。

実害の在り処を置きます。順序の根拠が記録に残らないので、後から順序を検証できません。読まれていないことが分かっても、順序が原因なのか内容が原因なのかを切り分けられません。切り分けられないので、次に触るのは表現の側になります。表現を直しても読まれないと、また表現を直します。

そして、書式が用意されている場合、この状態は見えにくくなります。埋める欄があると、埋め終わった時点で完成した感覚が生じるからです。欄が問うているのは項目の有無であって、順序の根拠ではありません。

ここで断っておくと、項目を集める手順が無駄だという話ではありません。読み手が期待している項目は、そこでしか分かりません。扱うのは、集めた項目を並べる段で何が要るかのほうです。

もう一つ、この状態が長く続く理由があります。順序を間違えた記事は、読めない記事にはなりません。項目は揃っているので、最後まで読めば内容は分かります。読めるけれども要旨が残らない、という結果になるので、原因の候補として順序が挙がりません。

構成の手順は、上位十件の確認から始まる

記事構成の作り方として共有されている手順は、ほぼ一つの形にまとまっています。

記事構成とは、記事の設計図にあたるものです。想定読者、その読者が抱えている悩み、見出しの並び、伝えたいこと。これらを本文を書く前に決めておく作業だと説明されます。

構成を作る理由として挙げられるのは、二つです。第一に、品質が構成で決まること。第二に、構成があると本文を書く作業が速くなること。行き当たりばったりで書くと、途中で迷い、話が逸れる、という指摘です。

手順が具体的に示されます。キーワードを決める。想定読者を決める。そのキーワードで実際に検索し、上位十件のタイトルと見出しを確認する。必要な項目を洗い出す。見出しを組む。

構成の型も示されます。結論を先に置き、理由を述べ、具体を示し、もう一度結論に戻る形が代表的です。読者は答えを求めて来るのだから、長い前置きを置かない、という説明が添えられます。

作業時間の目安も示されます。長くても一時間程度で仕上げる。細かく作り込みすぎない、という助言です。

記事構成のテンプレートが用意されていることもあります。見出しの階層、各見出しで書く内容、文字数の配分を埋めていく形です。

手順はどれも当たっています。構成なしで書けば迷いますし、上位の記事を見れば読者が期待している項目は分かります。結論を先に置くのも、その媒体では正しい判断です。読み手が当然あると思っている項目が抜けていれば、その記事は不完全に感じられます。抜けを埋める作業は、確実に必要です。

手順の底には、共通した一つの見方が敷かれています。構成は、項目を集めて並べる作業として整理されています。必要な項目が全部入っていれば、構成として成立する。網羅の問題です。

網羅の問題として整理し切ると、項目が揃った時点で構成が完成したことになります。並べる順序を決めた根拠は、記録に残りません。

この見方は、うまくいかなかったときの改善の向きも決めます。網羅が足りなかったと読めば、項目を足すことになります。足しても読まれない場合、次に疑われるのは表現の側です。順序という選択肢は、そもそも記録に残っていないので、疑われる候補にも入りません。

作業時間の目安も、同じ向きに効きます。一時間で仕上げるという目安は、項目を集めて並べる作業の所要時間としては妥当です。順序の根拠を一つずつ決める作業の所要時間としては、合いません。目安が測っているのは、手順が想定している作業のほうです。

上位の見出しを集めても、構成にはならない

手順の中心にあるのが、上位記事の見出しの確認です。この作業には、有効な部分と、そうでない部分があります。

有効なのは、読み手が期待している項目を知ることです。どのキーワードで来る読み手が、どういう問いを持っているか。上位の記事は、その問いに対する現在の標準的な答えを示しています。これは、確かめておくべき情報です。

有効でないのは、そこから構成を導くことです。上位十件の見出しを集めると、項目の集合が得られます。その集合には、順序を決める原理が入っていません。

順序を決めているのは、それぞれの記事の書き手が持っていた主張です。主張ごとに、必要な順序は違います。だから、十件から項目だけを抜き出して混ぜると、どの主張にも属さない項目の山になります。

この山を並べ替えるとき、根拠が要ります。根拠がないので、多くの場合、上位の記事の順序を採用することになります。

上位の順序は実際に読まれている順序なのだから正しいのではないか、という見方が立ちます。その記事にとっては正しい順序です。その記事の主張を支えるために組まれているからです。別の主張を持つ記事に、その順序を移植すると、支える対象が無い順序になります。

さらに、全員が同じ手順を踏むと、構成が収束します。収束すると、記事どうしの差は表現の側にしか残りません。同じ順序で同じ項目を扱った記事の中から、読み手が一つを選ぶ理由は、書き方の巧拙だけになります。

収束が悪いわけではない場面もあります。手順や仕様の解説のように、内容そのものが定まっているものでは、標準的な順序に従うほうが読みやすくなります。分かれるのは、主張が入る文章の場合です。

上位のページから採るのは、読み手が期待している項目と、上位が共通して出している答えです。採らないのは、構成と言い回しです。前者は読み手の側の情報で、後者は書き手の側の判断だからです。同じページを見ていても、何を持ち帰るかで作業の性質が変わります。

上位を先に見ると、自分の主張が上位の主張に引き寄せられます。読んだ後で自分の考えを整理すると、読んだものが混ざるからです。順序としては、自分の主張を先に一行書いてから上位を見るほうが、混入は少なくなります。

一行書いたうえで見ると、上位の答えと自分の答えが同じだった、という結果も出ます。これも損失ではありません。同じなら、その記事を書く理由がその時点で消えたということで、書いてから気づくより早い。

構成とは、項目の並びではなく論証の順序である

構成とは、一つの主張を読み手が受け取れる形に分解した順序のことです。

論証の骨格には、古くから使われている整理があります。トゥールミンは1958年に、議論を主張、根拠、そして根拠から主張を導く前提の三つに分けました(Toulmin, The Uses of Argument, Cambridge University Press, 1958)。加えて、限定と反証の余地を明示する要素が置かれます。

読み手の側から見た整理もあります。キンチュとファン・ダイクは1978年に、文章の理解を、個々の文の処理と、文章全体の要旨を構成する処理の二層に分けました(Kintsch & van Dijk, 1978, Psychological Review, 85(5), 363–394)。読み手は文を順に受け取りながら、同時に全体の要旨を組み立てています。

このモデルは、理解と産出の過程を説明する計算モデルの提示であり、記事の構成の効果を実務の場で測った報告ではありません。取り出せるのは、要旨の組み立てが読みながら進むという方向です。

方向が取れると、順序が何をしているかが見えます。読み手が組み立てている途中の要旨に、次の段が乗るかどうか。乗らない段は、要旨の外に置かれます。置かれた段は、読まれても要旨に入りません。

トゥールミンの整理が構成に効くのも、ここです。主張を先に置き、根拠を示し、根拠から主張へ渡る前提を明かし、当てはまらない場合を限定する。項目を並べているのではなく、一つの主張を支える部品を、乗る順に配置しています。

そして、この配置には過不足の判定が入ります。主張が一つに定まっていれば、必要な根拠の数は決まります。足りなければ主張が支えられず、多すぎれば主張と関係のない情報が混ざります。

「見出しの数に正解はない」という主張を立てたとします。必要なのは、その根拠と、根拠から主張へ渡る前提です。「見出しの作り方」という項目は、関連していますが、この主張を支えません。関連は、必要の判定基準になりません。

読み手は論証を読みに来ているわけではないのではないか、という疑いが立ちます。論証という形式を読みに来ているわけではありません。読み手が求めているのは、自分の状況で使える判断です。判断を渡すには、なぜそうなるかが要ります。なぜそうなるかを渡す並びが、論証です。

手順の説明では、論証より作業の順序が優先します。何をどの順にやるかが内容そのものである場合、主張の分解は前置きにしかなりません。分かれ目は、その記事が判断を渡すのか、作業を渡すのかです。

もう一つ、この整理には限定を扱う枠が含まれています。主張が当てはまらない場合を、論証の一部として置く枠です。限定は例外の告白ではなく、主張の適用範囲の指定です。範囲が指定されていない主張は、読み手が自分に当てはまるかを判定できません。判定できないものは、持ち帰られません。

論証の順序で組むと、扱えない項目が出てきます。読み手が期待していても、主張を支えない項目です。これらは削るのではなく、見出しの中の一段落として触れるか、別の記事へ回します。支えない項目を本論に入れると、主張の輪郭が消えます。

見出しは目次の項目ではなく、答える問いである

見出しは内容の分類名ではなく、その節が答える問いです。

「見出しの作り方」は分類名です。「見出しの数を決めているのは何か」は問いです。

問いの形にすると、その節が終わったかどうかが判定できます。問いに答えたら終わりです。分類名では、どこまで書けば足りるかが決まりません。

そして、問いの形にすると、答えが一つに定まります。分類名の下には、複数の答えを並べられます。並べられるということは、その節が何を主張しているか決まっていないということです。

たとえば「メールの書き方」という見出しの下には、件名の話、本文の話、送る時間の話、全部を入れられます。「読まれるかどうかを決めているのは、件名より前の何か」という見出しの下に入るのは、その問いへの答えだけです。

問いの形の見出しばかりだと読みにくいのではないか、という懸念が立ちます。表示の形は、問いの形に限りません。「読まれるかどうかは、件名より前で決まっている」と言い切る形でも構いません。必要なのは、書き手の側でその見出しが答える問いを一つに決めていることです。表示は、答えの形でも問いの形でもかまいません。

問いに分解できない節はあります。定義を置く節や、前提を共有する節です。これらは問いに答えているのではなく、問いを立てられる状態を作っています。数としては少数で、多くの場合、記事の前半に一つか二つです。

問いの形は、分量の見当にも効きます。一つの問いに答えるのに要る段数は、問いを立てた時点で概ね見えます。段数が一つしかない問いは、独立した見出しにする必要がありません。

逆に、段数が五つも六つもある問いは、二つの問いに分かれています。見出しの数は、この分解の結果として決まります。数を先に決めて、そこに内容を割り付ける順序ではありません。割り付けから入ると、量を満たすために関連する情報を足すことになります。

問いの形にすると、答えられない見出しが見つかります。問いは立つが、自分の側に答えが無い、という状態です。この場合、その見出しは書けません。分類名のままにしておくと、答えの無い節を、関連する情報で埋めることができてしまいます。

見つかる時点にも差があります。分類名で組んだ場合、答えが無いことに気づくのは本文を書いている途中です。問いの形で組めば、構成の段で分かります。書き直す量が、気づく時点で決まります。

主張から始め、案内で始めない

「本記事では〜について解説します」という書き出しには、情報が入っていません。

読み手は、記事のタイトルを見て入ってきています。何について書かれているかは、既に知っています。冒頭でそれを繰り返すのは、既知の情報の反復です。

そのうえ、案内の文には主張が入っていません。「解説します」は、これから何かを言うという予告であって、何かを言っていません。読み手が最初の数行で得るものが、ゼロになります。

主張から始めると、最初の数行で判断材料が渡ります。「見出しの数に正解はありません。決めているのは、扱っている主張の段数です」。この二文で、読み手はその記事が何を言うかを知り、続きを読むかどうかを決められます。

続きを読まない読み手も出ます。それは損失として数えません。案内から始めていても、何段落か読んだ後に離れていた読み手です。

結論を先に出すとその後を読む理由が無くなるのではないか、という心配があります。結論だけでは使えないからです。「見出しの数に正解はない」と知っても、自分の記事の見出しをいくつにするかは決まりません。決めるには、なぜ正解が無いのかと、代わりに何で決まるのかが要ります。それが本文です。

読む理由が無くなるのは、結論だけで完結する内容の場合です。その場合、記事の分量そのものが過剰だったということになります。

読み手が問題を認識していない場合は、認識の共有が先に来ます。検索して来た読み手は問題を認識していますが、そうでない経路から来る読み手もいます。この場合の冒頭は、案内ではなく症状の記述になります。

案内の文には、もう一つの働きがあります。書き手にとって、書き出しの負荷を下げることです。何を書くか決まっていなくても、「解説します」とは書けます。

だから、案内から始まっている記事は、書き始めた時点で主張が決まっていなかった可能性が高い。冒頭の一文は、書き手の準備状態を映しています。

主張から始めると、主張が弱いことが冒頭で露呈します。案内から始めれば、弱い主張は本文の中に紛れます。露呈は不具合ではなく、書く前に気づくべきだったことが、書き始めた時点で分かるということです。

そして、露呈する場所が冒頭であることには利点があります。冒頭は一段落しかないので、書き直す費用がほぼゼロです。本文を八節書いた後で同じことに気づけば、費用は八節ぶんになります。

まとまらない構成には、たいてい主張が二本入っている

「構成がまとまらない」という状態で足りていないのは、項目ではありません。主張が二つ以上入っています。

一つの記事に二つの主張があると、順序が決まりません。どちらを先に置いても、もう一方の根拠が宙に浮くからです。

たとえば、「構成は論証の順序である」と「見出しは問いである」は、関連していますが別の主張です。両方を主張として立てると、記事は二つの記事が交互に進む形になります。

解き方は二つです。一方を主張として立て、他方をその根拠の位置へ下ろすか、記事を分けるかです。下ろすと順序が決まります。分けても決まります。両方を主張のまま残す選択だけが、決まらない状態を続けます。

判定は簡単です。記事の内容を一文で書いてみて、その文に「そして」や「また」が入るなら、主張は二つ以上あります。

複数の論点を扱う記事のほうが役に立つのではないか、という見方が立ちます。情報量は増えます。受け取られる量は増えません。読み手が持ち帰れるのは、多くの場合一つです。二つ書いた場合に持ち帰られるのは、二つのうち一つか、どちらでもない印象です。

主張を支えるために複数の論点が要ることはあります。これは主張が複数あるのとは違います。論点は主張に従属し、主張は従属しません。判定は、その論点を削ったときに主張が崩れるかどうかです。

判定を助ける別の形もあります。各見出しが、どの主張を支えているかを一つずつ書き出すことです。二つ以上の主張名が現れたら、記事が二本入っています。

そして、支えている主張を書き出せない見出しが出てきます。これは関連しているだけの項目で、本論から外す対象です。外すか残すかを決めるのは、関連の強さではなく、支えているかどうかです。

扱う主題によっては、二つの主張を並べざるを得ない場合があります。二つの分界そのものが主題である場合です。この場合、主張は「二つが別のものである」という一つの主張になります。

絞る作業には、抵抗が付きます。二つとも自分が言いたいことなので、片方を下ろすのは損失に見えるからです。実際には下ろした側が消えるわけではなく、根拠の位置か、別の記事へ移るだけです。消えるのは、二つを同時に主張として立てるという選択肢だけです。

主張を一つに絞ると、書ける記事の数が増えます。削った主張が、別の記事の中心になるからです。構成がまとまらない状態は、しばしば、記事が一本ではなく二本あるという状態です。

長さは、読み手との距離で決まる

記事の長さを決めているのは、主題の大きさではありません。

決めているのは、書き手と読み手の間にある前提の差です。差が大きければ、埋める段が多く要ります。差が小さければ、少なくて済みます。

同じ主張を、同じ領域で仕事をしている相手に伝えるなら、数行で足ります。共有している前提が多いからです。領域の外にいる相手には、前提から積むことになります。

この構造は、文章の形式全般に当てはまります。販売のための長い文章が長いのも、同じ理由です。関係が浅いほど、確かめなければならないことが多くなります。

したがって、長さは目標ではありません。前提の差を埋めた結果として、そうなる量です。埋め終わっていないのに切り上げれば短くなり、埋め終わったのに足せば水増しになります。

長い記事のほうが評価されるという話があるのではないか、という疑いが立ちます。検索の側は、字数そのものを目標として扱っていないと明言しています。観測される相関は、扱いが充実している記事が結果として長い、という順序で説明がつきます。逆にすると、長さを先に決めて中身を後から足すことになります。

前提の差は、読み手ごとに違います。一つの記事で全ての読み手の差を埋めることはできません。決めるのは、どの位置の読み手に合わせるかです。これは対象の設定に属する判断です。

この構造には、実務上の使い道があります。記事が想定より長くなったとき、原因を二つに切り分けられます。前提の差が大きい主題なのか、それとも同じことを繰り返しているのか。

切り分けは、各段を一文に圧縮してみると分かります。圧縮した文が並んで論証になっているなら、長さは段数の帰結です。同じ内容の文が二度現れるなら、繰り返しです。

この圧縮は、削る作業とは別です。削るかどうかを決める前に、長さの正体を判定しています。判定せずに削ると、繰り返しではなく段のほうが落ちます。

前提の差は、こちらから測れる範囲にも限りがあります。読み手が何を既に知っているかは、直接には見えません。見えるのは、その領域で標準的に共有されている説明の水準までです。その水準を下限として、そこから積むことになります。

差を埋める作業を丁寧にやると、記事が長くなります。そして長い記事は、既に前提を持っている読み手には冗長です。この二つは両立しないので、どちらかを選ぶことになります。選んだ結果を明示すると、対象外の読み手は早く離脱でき、それは双方にとって費用の節約です。

型は骨であって、順序の正解ではない

型は組み立ての負荷を下げますが、順序の正しさは保証しません。

型が果たしている機能は、組み立ての負荷を下げることです。主張、理由、具体、結論という並びを持っていれば、何を書くかを毎回ゼロから考えずに済みます。この効用は実在します。

型が果たしていない機能は、順序の正しさを保証することです。型は、多くの場面で機能する並びを一般化したものであって、特定の主張に対する最適な並びではありません。

読み手が既に反対の意見を持っている主張では、主張を先に置くと拒否されます。この場合、先に置くのは共有できる観察のほうです。観察を共有してから主張へ進む順序になります。

型から外れる判断ができるのは、型が何をしているかを知っている場合だけです。知らなければ、型に従うか、無秩序に書くかの二択になります。

型に従っておけば大きく外すことはないのではないか、という見方には条件が付きます。外しません。同時に、当たりもしません。型は、平均的な出来を保証する道具で、それ以上のことはしません。これは欠点ではなく、そういう道具だということです。下限を上げる働きと、上限を上げる働きは別のものです。

慣れていない段階では、型に従うほうが結果が良くなります。判断の材料が無い状態で外すと、外した理由が説明できないからです。外す判断は、型で何本か書いた後にしか下せません。

型を外すときに要るのは、代わりの順序ではなく、順序の根拠です。「なぜここで観察を先に置くのか」に一文で答えられるなら、外してかまいません。答えられないなら、外す理由が無いということです。

この判定は、型そのものにも当てられます。型に従っている箇所についても、なぜその順序かを答えられるかを見る。答えられるなら、型に従っているのではなく、たまたま一致しているだけです。

一致している状態と、従っている状態は、外からは区別できません。区別できるのは書き手だけで、区別できているかどうかは、次に型が合わない主題に当たったときに現れます。

現れ方は、書けないという形ではありません。型に合わせて書けてしまう形です。主張のほうが型に合う大きさへ縮み、縮んだことは原稿の上に現れません。落ちた論点は、書かれなかったので読み返しても見つかりません。

型を使い続けると、型に収まる主張しか立てなくなります。主張、理由、具体という並びに収まらない構造——たとえば、二つのものの分界を示す構造——は、型の中では扱いにくくなります。扱いにくい構造は、次第に書かれなくなります。

順序に根拠があるかは、本文を書く前に測れる

本文を書き始める前に測れることが、三つあります。

第一の確認は、記事の内容を一文で書いてみることです。

書けるなら、主張は一つです。「そして」「また」が入るなら、二つ以上あります。数分で終わる確認ですが、構成を作り直す原因の一つを、ここで潰せます。

第二の確認は、見出しを問いの形に書き換えてみることです。

書き換えられない見出しは、分類名です。分類名のままの見出しは、何を書けば終わりなのかが決まっていません。書き換えたうえで、その問いに一行で答えてみます。答えられない見出しは、書けない見出しです。

第三の確認は、見出しの順序を入れ替えてみて、成立するかを見ることです。

入れ替えても成立するなら、その順序には根拠がありません。根拠のない順序は、項目の一覧です。入れ替えると成立しなくなるなら、前の見出しが後の見出しの前提になっているということで、論証として繋がっています。

項目の網羅は、三つのどれも見ていません。網羅は構成の必要条件であって、構成そのものではないからです。

三つが判定しないことがあります。その主張が読み手にとって価値があるかどうかです。一つに定まっていて、順序に根拠があって、それでも読み手にとって既知である、という記事は成立します。この判定は、構成の側では行えません。行えるのは、書く前に一度だけです。上位の記事が既に出している答えと、自分の主張が同じでないかを確かめる。同じなら、構成をどう組んでも新しいものは出ません。

見出しをいくつにするか、一つの見出しに何字書くか、どこまで前提を埋めるか。ここに配分表は付きません。長さが前提の差で決まるなら、差を見ないまま配分を書くことはできないからです。配分表を渡すことは、その差を見ずに量を決めることになります。

手順を最後まで実行しても、出てくるのは項目の一覧でした。並べる順序を決める原理は、その一覧の側に入っていません。読み手は読みながら要旨を組み立てているので、順序は「次の段が乗るか」で決まり、乗るかどうかは主張が一つに定まっているかで決まり、量は読み手との前提の差で決まります。三つは別々の規則ではなく、順序が主張から出てくるという一点の、別々の側面です。

組んだ構成に当てる基準は、結局のところ一行です。なぜこの順でなければならないのかに、一文で答えられるか。答えられない箇所が、まだ一覧のまま残っている箇所です。

見出しそのものの立て方は見出しの作り方で、冒頭の数行をどう書くかはリード文の書き方で扱っています。何を主張として立てるかがそもそも決まらない場合は、何を書けばいいかわからないときが手前に当たります。なぜこの順でなければならないのかという問いは、記事の中だけでなく、書く作業そのものの順序にも当たります。どこから手を付けるかという側は言語化の全体像が持っています。

上部へスクロール