終わらない渇き

億万長者になっても渇きが終わらない仕組み|適応水準という壁

はじめに

億万長者になるための資産形成術や、その思考法については、すでに情報が揃っています。本記事が扱うのは、その先にある地点です。首尾よく多くのお金を手に入れたとき、私たちはようやく満たされるのか。

これは、模倣に対する最も手強い反論への応答でもあります。「理屈はどうあれ、現に豊かになりさえすれば、それでいいではないか」——この反論に、正面から向き合います。

結論を先に示します。満たされない感覚は、豊かさが足りないせいで生じているのではありません。豊かさを手にするたびに基準が自動でせり上がる、その仕組みのほうから、絶え間なく供給されています。

手に入れた瞬間、基準ごと逃げていく

心理学は、人間の幸福感について、ひとつの厄介な性質を明らかにしてきました。適応水準、あるいは快楽の踏み車と呼ばれる仕組みです[Brickman & Campbell, 1971]。

私たちの満足の基準は、いま手にしているものに合わせて、たえず調整され直していきます。新しい何かを手に入れた直後には、たしかに喜びが湧きます。けれども、その喜びは長くは続きません。やがて、手に入れた状態が「当たり前」になり、満足の基準そのものが、そこまで引き上げられてしまう。

すると、かつては夢だった水準が、いまや日常の床になり、人はまた、その床の上から次の高みを見上げはじめる。走っても走っても同じ場所にとどまる、回転する踏み台。 それが、快楽の踏み車という言葉の意味です。

思い当たることがあるはずです。長く待った昇給も、念願の車も、新しい住まいも、手にした瞬間の高揚は、数週間もすれば、すっかり風景の一部になってしまう。「これが手に入れば満たされる」という約束は、手に入れた瞬間に、基準ごと逃げていきます。 私たちは、満足のゴールに近づいているつもりで、実は、ゴールそのものを自分の足で前へ押しやり続けていました。

この引き上げは、お金に限りません。少し前まで、手のひらの中であらゆる用事が片づく道具は、夢のような便利さでした。けれども、いまや、あって当たり前で、むしろ、つながらなければ苛立つ。かつての贅沢が、いつのまにか満たされて当然の床になり、その床から、人はまた新しい不足を見上げはじめます。

桁違いの大金を手にした人は、その後どうなったか

この約束を最も鮮やかに検証できる出来事があります。宝くじの高額当選です。もしお金の量が満足の量を決めるのなら、ある日突然、桁違いの大金を手にした人は、その後の人生を桁違いの幸福の中で過ごすはずです。

ブリックマンらのよく知られた研究が、この「実験」の結果を調べました[Brickman et al., 1978]。結果は、多くの人の直感を裏切るものでした。 高額当選者たちの幸福感は、当選からしばらく経つと、当選していない人々とほとんど変わらない水準へ静かに戻っていきました。一時の高揚は本物でしたが、長続きせず、当選という出来事は、その人の新しい日常の床になっていった。

さらに、考えさせられる発見がありました。高額当選者たちは、日々のささやかな出来事から得られる喜びを、むしろ以前より感じにくくなっていたといいます。あまりに大きな当たりを経験した心には、小さな幸福がかすんで見えるようになる。大金は、幸福の総量を増やすどころか、幸福を感じる感度のほうを鈍らせていた可能性があります。

近年の研究も、この方向を裏づけています。カーネマンとディートンが大規模なデータで調べたところ、所得は、人生についての評価をたしかに押し上げます。けれども、今日一日をどれだけ心地よく過ごせたかという日々の感情的な幸福のほうは、ある水準を超えると、それ以上はほとんど上がらなくなる[Kahneman & Deaton, 2010]。

模倣が約束していたのは、たいてい後者のほうでした。 「豊かになれば、毎日が満たされる」という、あの感覚の約束です。ところが、感覚の幸福こそが、お金で買い続けられないもののほうでした。

▸ そもそも「共通点」がどんな手続きで作られるかは、成功者の共通点は、どうやって作られたのかで扱っています。

この仕組み自体は、欠陥ではない

ここで、一つ付け加えておきます。満足の基準が手にしたものへ追いついていく働きは、人間の欠陥ではありません。 むしろ、生きていくために欠かせない、賢い仕組みです。

もしこの働きがなければ、私たちは、過去に失ったもののすべてを、いつまでも同じ深さで嘆き続けることになります。大きな不幸に見舞われても、人がやがて立ち直り、日常を取り戻していけるのは、この適応の力が、痛みの基準をも少しずつ和らげてくれるからです。適応は、喜びを薄れさせるのと引き換えに、悲しみをも薄れさせてくれる、両刃の働きです。

問題は、この仕組みそのものにあるのではありません。この賢い仕組みの存在を無視して、「もっと豊かになりさえすれば、満足はずっと続く」と約束する側にあります。 人間の心が、得たものに静かに慣れていくようにできている以上、青天井の満足を約束する商品は、心の作りそのものと、はじめから矛盾しています。

位置で決まる豊かさには、終点がない

渇きが終わらない理由は、自分の内側だけにあるのではありません。外側にも、渇きを再生産する仕組みがあります。私たちは、自分の豊かさを、決して単独では測らないという性質です[Festinger, 1954]。

人は、持っているものの絶対量ではなく、まわりと比べてどうかという相対的な位置で、自分の豊かさを感じ取ります。年収が倍になっても、まわりの年収も同じだけ上がっていれば、豊かになった感覚はほとんど得られません。

ここに、終わりのなさの根があります。一段のぼれば、見える景色が変わり、それまで見えなかった、もっと上の段にいる人々が視界に入ってくる。のぼったぶんだけ、比較の相手が上へずれていく。 だから、どれだけのぼっても「まだ上がいる」という感覚は消えません。経済学者イースタリンが見出した、一国全体が豊かになっても人々の平均的な幸福感は上がらないという逆説も、この相対性から説明がつきます[Easterlin, 1974]。

この渇きを、いっそう深くしているのが、いまの時代の特徴です。かつて、人が自分を比べる相手は、近所の人や職場の同僚といった、地続きの暮らしを送る人々に限られていました。ところが、画面の向こうには、世界じゅうの最も成功した人々の、最も輝かしい瞬間だけが流れ込んできます。 比較の相手が、手の届く隣人から世界の頂点へすり替わったぶん、どれだけ豊かになろうと、上を見上げる感覚から逃れられなくなっています。

「ならば、上を見ずに、いまあるものに目を向ければよい」という応答があるかもしれません。たしかに一つの知恵です。けれども、模倣は、その出発点からして上を見ることを命じる営みでした。「成功者を手本にせよ」という号令は、つねに、自分より上にいる誰かへ視線を釘づけにします。

外側の報酬を中心に据えるほど、満たしは遠ざかる

心理学は、さらに踏み込んだ発見をしています。富や地位や名声といった外から与えられる報酬を、人生の中心的な目標として強く追い求める人ほど、かえって心の満たされ方が低くなる傾向があるという発見です[Kasser & Ryan, 1993, 1996]。

なぜか。一つの説明は、外的な目標が、人間にとって本当に必要な心の栄養——自分で自分の人生を選んでいるという感覚、誰かと深くつながっているという感覚、自分には何かをなしうるという感覚——を満たしてくれないからだ、というものです。外的な報酬は、これらの代用品にはなりません。だから、いくら外側を満たしても、内側の渇きは手つかずのまま残り続けます。

喉が渇いている人が、いくら塩水を飲んでも渇きが癒えないように、外的な報酬は、内側の渇きには、もともと届かない種類の水でした。

しかも、追えば追うほど、心の本当の栄養から人を引き離していく性質もあります。富や地位を中心に据えた人は、それを得るために、自分の時間や人との関係を後回しにしていきます。比べることが習い性になれば、まわりの人は、心を許す相手ではなく追い越すべき相手に見えてくる。外的な目標は、心の栄養を満たさないだけでなく、その栄養を生み出す土壌のほうを痩せさせてしまいます。

まとめ:疑うのは欲望ではなく、上向きの約束のほう

慎重に区別しておきます。これは「お金を求めること自体が間違いだ」という話ではありません。 食べるものや住む場所に事欠く状態から抜け出すことは、生活を現実に楽にします。生活の安定を願うことも、より良い環境を望むことも、何ら否定されません。

問われているのは、「いま以上に豊かになりさえすれば、いまの渇きが消える」という上向きの約束のほうです。そして、その約束の中身——どんな成功者になるべきか——までが外から供給されているとき、二重に借り物になります。

この約束を手放すことは、夢を奪われることではありません。「豊かになれば満たされる」と信じているあいだ、人は、いまの人生を「満たされる前の、不完全な状態」として生きることになります。 本当の人生は豊かさを手にしたあとに始まる——そう思い込んで、いまこの瞬間を先送りしてしまう。

約束を疑えたとき、はじめて、「では、自分の渇きは、本当のところ何によって癒されるのか」という、もっと正直な問いが立ち上がります。

その全体像は、マインドセットを真似ても豊かにならない理由にまとめています。

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参考文献

【学術論文・理論】

  • Brickman, P., & Campbell, D. T. “Hedonic Relativism and Planning the Good Society” in Adaptation-Level Theory(1971)Academic Press
  • Brickman, P., Coates, D., & Janoff-Bulman, R. “Lottery Winners and Accident Victims: Is Happiness Relative?” Journal of Personality and Social Psychology, 36(8)(1978)
  • Kahneman, D., & Deaton, A. “High Income Improves Evaluation of Life but Not Emotional Well-Being” PNAS, 107(38)(2010)
  • Festinger, L. “A Theory of Social Comparison Processes” Human Relations, 7(2)(1954)
  • Easterlin, R. A. “Does Economic Growth Improve the Human Lot? Some Empirical Evidence”(1974)Academic Press
  • Kasser, T., & Ryan, R. M. “A Dark Side of the American Dream: Correlates of Financial Success as a Central Life Aspiration” Journal of Personality and Social Psychology, 65(2)(1993)
  • Kasser, T., & Ryan, R. M. “Further Examining the American Dream” Personality and Social Psychology Bulletin, 22(3)(1996)
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