体験を書いたのに、教訓の話になってしまう方へ/失敗と呼べるのは、うまくいかなかったと分かった後である

体験談の書き方は、結論を知る前の自分の位置に戻ることから始まる

同じ出来事を、二通りに書いてみます。

一つ目。「毎日の投稿を続けていましたが、成果は出ませんでした。」二つ目。「投稿を続けていた。反応は少しずつ増えていた。だから、続ければ届くと思っていた。」

書かれている出来事は同じです。違うのは、書いている人がどこに立っているかです。一つ目は結果を知った位置から書かれ、二つ目は結果を知る前の位置から書かれています。

体験談の書き方として案内される順序は、一つ目を要求しがちです。困っていた時期があり、試して失敗し、転機があり、変化した。この並びは読みやすく組まれていますが、並べるためには一つのことが先に済んでいる必要があります。その体験が何の話だったのかを、書き手が既に知っていること。

知っている位置から書くと、体験は要約に変わります。当時は分からなかったことが、最初から見えていたように並びます。読み手が受け取るのは、出来事ではなく、出来事から抽出された教訓です。教訓そのものは、あとから誰でも書き写せます。その体験をした人にしか書けないのは、まだ結論を知らなかったときに何が見えていて何が見えていなかったか、のほうです。

引き受ける問いは三つです。第一に、なぜ型のほうが結論を先に要求してくるのか。第二に、体験そのものを主題に置くと、読み手には何が渡らなくなるのか。第三に、一件の体験を根拠として使うとき、示せる範囲はどこまでか。

決めないものも挙げておきます。どれくらいの長さにするか、失敗をいくつ書くか、感情をどこまで書くか。ここに数値は渡しません。扱う体験の複雑さと、読み手がその領域について既に持っている前提の量で変わるからです。目安を置けば、配分を結論の側から決めることになり、当時の位置に戻るという作業と正面から衝突します。

外したときの現れ方も書いておきます。要約になった体験談も、読まれはします。読み手は場面を追い、面白いと感じ、そして自分の話としては何も持たずに離れます。厄介なのは、書き手の側からこの差が見えないことです。返ってくるのは読まれたという事実だけで、持ち帰られたかどうかは返ってこないからです。

なお、体験を一次情報として扱うときの一般的な規律は一次情報の書き方が引き受けています。ここで扱うのは、その体験を物語の形にして人に読ませる場合です。

体験談の書き方は、ほぼ一つの並びで教えられている

体験談の書き方についての説明は、実務の側で一つの型に落ち着いています。

体験談とは、書き手自身が経験したことを、読み手に向けて語る形式のことです。一般論と違い、実際に起きたこととして語られるので、読み手が自分に重ねやすいと説明されます。

構成の順序が示されます。読み手と同じ状態にいた頃から始める。何に困っていたかを書く。試して失敗したことを書く。転機を書く。何が変わったかを書く。読み手への言葉で閉じる。

書き方の助言も添えられます。その場面が目に浮かぶように書く。感情を率直に書く。数字や固有の細部を入れる。失敗を隠さない。格好をつけない。

理由も説明されます。完璧な成功談は距離を作ります。うまくいかなかった時期が入っているほうが、読み手は自分と地続きに感じます。だから失敗を厚く書くべきだ、という助言になります。

型はもう一系統あります。組織論の側で共有されているパブリック・ナラティブは、自分の物語・私たちの物語・行動の物語という三つを重ねる形を指定します(Ganz, 2011, Accountability through Public Opinion, World Bank, 273–289)。個人の経験を語り、それを聞き手と共有する価値へつなぎ、いま取れる行動へ渡す、という順序です。

この型が扱っているのは、集団の行動をどう起こすかという問題です。設計されている場面が違うので、そのまま持ってくると、体験は行動を促すための装置として置かれます。個人の事業で書く体験談では、行動を起こさせるより先に、読み手が自分の位置を測れる状態を作る仕事があります。

どの助言も、実務の説明として合っています。失敗が入っている文章のほうが読まれるのは事実ですし、細部があるほうが場面は立ち上がります。教訓だけを並べた文章が読まれにくいことも、実際にそうなります。

ただ、この一式の下には共通の前提が一つ置かれています。体験談は、読み手に信じてもらうための形式として整理されています。距離を縮め、信頼を作り、行動へつなげる。関係の問題として組まれています。

関係を作ることが誤りだ、という話ではありません。誰が書いているか分からない文章より、経緯の分かる文章のほうが受け取られやすくなります。これは実際に働きます。

問題になるのは、関係の問題として整理し切ると、体験の中身が「効く形」に合わせて選ばれる点です。効く場面が残り、効かない場面が落ちます。落ちた場面のほうに、読み手が使える材料が入っていることがあります。

そして、効く形は伝播します。苦境、転機、変化という並びが揃うので、読み手は途中で先の展開が読めるようになります。読めると、差が付くのは細部だけになり、書き手は細部を強くする方向へ進みます。

エッセイとして読ませるか、材料として使わせるか

同じ体験を書いても、目的は二つに分かれます。分かれ目は、読み終えた読み手の側に何が残るかです。

一方は、読み物として読ませる形です。エッセイの体験談は、味わう対象が文体と情景そのものにあります。読み終えた読み手に残るのは、読んでいた時間の質です。この形では、書き手の固有性が価値になります。その人の見方でその出来事が書かれていることに、読む理由があるからです。

もう一方は、材料として使わせる形です。読み終えた読み手に残るのは、自分の条件へ持ち帰れる区別です。この形では、書き手の固有性は手段の側へ回ります。固有の経験を通してしか取り出せない区別があるから、その経験を書きます。

判定は一つで足ります。読み終えた読み手が取り出せるものを、一行で書けるかどうか。書けるなら材料の側で、書けないなら読み物の側です。どちらが上ということはありません。誤りになるのは、材料のつもりで書いたものが読み物になっている場合だけです。

二つが混ざること自体は、問題になりません。材料として書かれた文章に読ませる工夫が入っているのは自然ですし、読み物として書かれた文章から読み手が何かを持ち帰ることもあります。決まっていないと困るのは、書き手の側です。

決まっていないと何が起きるかは、失敗の書き方にそのまま現れます。「失敗を書くべき」という助言は、二つの目的を一つにまとめています。

一つは、距離を縮める目的です。完璧な人の話は遠いので、うまくいかなかった時期を見せて、同じ人間だと示す。この目的なら、失敗は短くて構いません。一段落あれば足ります。

もう一つは、材料を渡す目的です。その失敗がなぜ起きたのか、何が見えていなかったのか。同じ位置にいる読み手が、同じ経路を通らずに済むための記述です。この目的では、失敗は要約すると使えなくなります。

「三年間、まったく成果が出ませんでした」は、距離を縮めます。「反応が返ってくるまでの時間と、書く作業にかかる時間が釣り合っていないことに気づいていなかった。だから、返りの速い作業のほうへ手が動いていた」は、材料です。後者を読んだ読み手は、自分の作業の配分を点検できます。

読まれなければ材料も届かないのではないか。そう反論できます。読まれる形にすることと、材料を落とすことは別です。順序を工夫して読みやすくするのは前者で、当時の迷いを削って一本の線にするのは後者です。削られた迷いは、いま同じ位置にいる読み手が必要としている部分です。

代償は長さに出ます。材料として書けば、その体験の記述は長くなります。両方の目的を一つの失敗で果たそうとすると、中途半端な長さに落ち着き、距離も縮まらず材料にもならない記述が残ります。

型が要求しているのは、結論を先に決めることである

失敗、学び、変化という並びは、時系列に見えて、時系列ではありません。

「失敗」という語は、結果を知らないと使えません。その時点では、試している最中です。うまくいくかどうかが分からないから試しているのであって、失敗と呼べるのは、うまくいかなかったと分かった後です。

「学び」も同じです。その経験から何を学んだかは、後になって決まります。当時あるのは、何が起きたかだけです。

したがって、この型に沿って書く作業は、体験を後の視点から並べ直す作業になります。並べ直した時点で、当時の視界は消えています。

視界が消えると、何が失われるかがはっきりします。当時、何が正しく見えていたか。なぜその選択が妥当に思えたか。別の道が見えていなかったのはなぜか。これらは、結論を知った後からは書けません。結果を知ると知る前の見え方を思い出せなくなる、という機序そのものは一次情報の書き方で扱いました。ここで問題になるのは、型のほうがその視点を積極的に要求してくる点です。

型に沿った一文を置いてみます。「毎日の投稿を続けていましたが、成果は出ませんでした」は、後から見た評価です。当時の記述は「投稿を続けていた。反応は少しずつ増えていた。だから続ければ届くと思っていた」になります。後者のほうが、いま同じことをしている読み手の状態に一致します。

読み手は結論を知りたいのだから、先に置いて構いません。そう見えます。結論は先に置いて構いません。冒頭で「この方法では届きませんでした」と書くのは、順序の問題です。問題になるのは、本文の中の場面まで結論の側から描かれることです。冒頭の結論と、場面の中の視界は、両立します。

当時の視界を再現できない体験もあります。時間が経ちすぎている場合や、記録が残っていない場合です。この場合は、再現できないことを書くほうが正確です。「当時どう考えていたかは、正直なところ思い出せません」と書けます。

書き手の側には、落ち着かなさが残ります。当時の視点で書けば、読み手は判断を保留したまま読み進めます。結論の出ていない場面が続くので、書き手には不親切に見えます。見えるので、各場面の後に解説を足したくなります。足すと、場面が解説の例示に変わります。そして例示に変わった場面から、読み手が自分で取り出せるものは無くなります。取り出す作業を、書き手が先に済ませてしまったからです。

感情にも時制がある

「感情を率直に書く」という助言には、どの時点の感情かが指定されていません。

当時の感情と、いま思い出したときの感情は、別のものです。そして、後者は前者と入れ替わっていることがあります。

感情の想起については、実験があります。レヴィンは1997年に、ある候補者の支持者に対し、選挙戦の途中の時点で感情を記録してもらい、後日その感情を思い出してもらいました(Levine, 1997, Journal of Experimental Psychology: General, 126(2), 165–177)。思い出された感情は、その後に起きたことと、現在の考えのほうへ寄っていました。

対象は特定の政治的な出来事に対する感情であって、あらゆる感情の記憶が同じ幅でずれるという主張ではありません。示されたのは、感情の記憶が現在の解釈の影響を受ける、という方向です。

書く側への含意は単純です。「あのときは苦しかった」と書くとき、その苦しさは、後の結果を知ってから割り当てられた感情かもしれません。当時の記録があるなら、記憶より記録を見るほうが正確です。

当時のメモに「今日は反応が三件あった。少し嬉しい」と書いてあるとします。後から書く体験談では、その時期が「まったく反応がなく苦しかった時期」になっていることがあります。両方とも嘘ではありません。違うのは、どちらの時制で書いているかです。

いま感じていることを書くほうが率直ではないか。率直さの点では、どちらも率直です。分かれるのは、読み手が受け取る材料のほうです。いまの感情を書くと、読み手は結果を知っている人の感想を受け取ります。当時の感情を書くと、いま同じ位置にいる読み手が、自分の状態と照らし合わせられます。

いまの感情を書くべき箇所もあります。その経験をどう位置づけているかを示す段です。この場合、時制を明示すれば混ざりません。「いま振り返ると」と書けば、読み手はそれが後からの視点だと分かります。混ざるのは、明示しなかった場合だけです。当時の場面の中にいまの感情がそのまま入っていると、読み手はそれを当時の感情として受け取ります。

分けて書くと、思いがけないものが出てきます。当時の感情は、記憶にあるより平坦なことがあります。劇的な瞬間が少ないからです。平坦な記述は、書いていて不安になります。そして不安を埋めようとすると、また後からの感情が入ります。

体験を主題に据えると、渡るのはその体験だけになる

体験そのものを主題に据えると、読み手に伝わるのは、その体験だけになります。

読み手は、書き手の体験だけを読まされても、だから何なのかとしか思えません。要る工程は、括ることです。複数の体験から共通項を取り出し、その共通項を中心に置く。体験は、その共通項を支える具体として置きます。

抽象度を上げると、情報量は減ります。減る代わりに、構造は強くなります。「正義」という語は個別の法律を並べるより情報量が少ないのに、法の空間をはるかに強く構造化します。構造を失わずに圧縮する作業が、括るという工程です。

判定は、固有の要素を外してみると付きます。業種、金額、時期、相手の名前。全部外したあとに残る一文があるなら、括れています。残らないなら、まだ体験そのものが主題の位置にあります。

体験が一件しか無い場合はどうなるか。一件では括れません。共通項は、二つ以上の事例の間にしか現れないからです。この場合、その体験は主題ではなく、他の場所で立てた構造を支える具体として置くことになります。逆に言えば、括る作業が済んでいれば、手持ちが一件でもその一件は使えます。

括ると一般論になって、体験を書く意味が無くなるのではないか。ここは分けて考えます。一般論と、具体に支えられた構造は、別のものです。構造だけを書けば、出所が示せません。示さないまま置かれた構造は、読み手には一般論として届きます。体験は、その構造がどこから来たかを示すために置かれます。

共通項の取り方は、抽象的な作業に見えて、実際には突き合わせの作業です。音楽の仕事で、技術は上がっているのに気持ちが乗らなくなった時期があるとします。別の時期に、依頼が増えているのに同じことが起きたとします。二つを並べると、共通しているのは技術でも量でもなく、何のために使うかの起点が自分の内側から外側へ移っていた、という一点だと分かります。取り出された一点が主題になり、二つの体験はその具体として下に付きます。

逆向きの失敗もあります。共通項が取れていないのに、複数の体験を並べる形です。並べると、読み手は共通項を自分で探すことになります。探せた場合はよいのですが、探せなかった場合、残るのは長い経緯だけです。

代価は、書ける体験が減ることです。括れない体験は、主題にできなくなります。減った分は、構造の説明で埋めることになります。埋められない場合、そもそも一般化できる主張ではなかった、ということになります。この判定は書く前に付くので、書いてから捨てる作業にはなりません。

読み手が重ねているのは、出来事ではなく判断の位置

体験談を読んだ読み手は、出来事を重ねているのではありません。

重ねているのは、その人が何を知らなかったか、何を選べたかという位置です。業種も、金額も、時期も違って構いません。同じなのは、判断の材料が足りない状態で決めなければならなかった、という位置です。

したがって、細部の一致は必要ではありません。音楽をやっていた人の話が、まったく別の仕事をしている読み手に届くのは、この構造によります。逆に、位置が書かれていないと、細部が一致していても届きません。同じ業種の成功談が「自分とは違う」と読まれるのは、判断の位置が書かれていない場合です。

臨場感が読み手の記憶の側から立ち上がる機序は、一次情報の書き方で扱いました。体験談では、この記憶を呼ぶ手がかりが「その時点で何が見えていたか」になります。

「三十万円の案件を受けるか迷いました」と書くだけでは、金額の一致した読み手にしか届きません。「受ければ二か月分の見通しが立つが、その二か月は自分のものを作れない。どちらが後で効くのか、判断する材料が無かった」と書くと、金額が違っても位置が一致します。

細部を書かないと、場面が立ち上がらないのではないか。細部は要ります。要るのは、判断の材料になった細部です。部屋の様子や天気は、判断に関わっていなければ、位置の再現に寄与しません。選ぶ基準は、印象の強さではなく、その細部が判断に効いたかどうかです。

位置だけを書くと、抽象的になります。「材料が無かった」とだけ書けば、何の話か分かりません。位置は、必ず具体の中で示されます。両方が要るという意味では、細部を減らす話ではありません。減らすのは、判断に効かなかった細部だけです。

判定は、細部を一つずつ外してみると付きます。外しても位置が残るなら、その細部は装飾です。外すと位置が分からなくなるなら、必要な細部です。

位置が効かない読み手もいます。まだその判断の前に立ったことがない人です。この場合、読み手は位置を重ねる代わりに、そういう分かれ道があることを知る側へ回ります。届き方が変わるだけで、無駄になるわけではありません。ただし、その読み手に向けて書くなら、位置の記述だけでは足りず、その分かれ道がどこで発生するかを先に書く必要があります。

位置を書くには、代価が要ります。当時の判断材料を思い出す作業です。出来事より思い出しにくいものです。思い出せない場合、書けるのは出来事だけになります。その体験談は、読み手が重ねる先を持ちません。

一件の体験が示せるのは、存在であって一般則ではない

一件の体験は、それが起こりうることを示します。示さないのは、それが一般に起こるということです。

一人がその方法で結果を出したことは、他の人が同じ方法で結果を出すことを意味しません。この区別は論理の側の問題であって、体験の質とは関係ありません。どれだけ正確に書かれた体験談でも、示せる範囲は同じです。

したがって、体験談を根拠として使うときには、範囲の指定が要ります。「この方法で結果が出ました」ではなく、「この条件のもとでは、この経路が通りました」になります。

範囲を指定すると、読み手が判定できます。自分の条件がそこに含まれているか。含まれていなければ、その体験談は自分には当てはまらないと分かります。分かることが、読み手にとっての価値です。

条件を書かない場合はこうなります。「広告を使わずに登録者が増えました」と書くとします。条件を添えると、「既に読んでいる人が数百人いる状態から始めた」「扱っている領域に、同じことを書いている人が少なかった」となります。条件を読んだ読み手は、自分に当てはまるかを判断できます。

条件を書くと、説得力が下がるのではないか。その場の説得力は下がります。下がった分、当てはまらない読み手が正しく離れます。離れなかった場合、その読み手は当てはまらない方法を試すことになり、結果は出ません。出なかったとき、原因は方法ではなく条件の不一致ですが、そう読まれにくいものです。

条件を全部書き出すことはできません。書き手自身が気づいていない条件があるからです。書けるのは、気づいている範囲までです。「他にも条件があったかもしれません」と書けます。

射程には、読み手の側からの見え方もあります。一件の事例は、条件が書かれていなくても説得力を持ちます。具体的で、実際に起きたことだからです。説得力の大きさと、示せる範囲の狭さが逆を向いているので、書き手が範囲を書かなければ、読み手は範囲を広く取る側へ倒れます。

逆向きの使い方も一つあります。一件で足りる主張が、一つだけあります。それができる、という主張です。「この規模では無理だ」「この形では成立しない」と言われている場面では、一件の反例がその判断を崩します。一般に起こることを示すには一件では足りず、起こりうることを示すには一件で足ります。この非対称が、自分の体験をどの主張に当てるかを決めます。

この限界は、記事の組み方にそのまま返ってきます。体験談を主要な根拠として一本の記事を組むのは、範囲の点で無理があるからです。体験談がよく働くのは、構造の説明に対する具体として置かれるときです。

変化を書くと、変化の前が実際より低く描かれる

「前はこうだった、いまはこうなった」という並びには、機構上の偏りがあります。

変化の大きさは、前と後の差で示されます。差を大きく見せるには、前を低く描くか、後を高く描くかのどちらかです。書き手が意図しなくても、対比の形そのものが、この方向へ引きます。

引かれる方向は、記憶の側でも観測されています。コンウェイとロスは1984年に、学習技能の講座に参加した学生を追跡し、講座の後で参加前の自分の技能を評価し直させました(Conway & Ross, 1984, Journal of Personality and Social Psychology, 47(4), 738–748)。実際の成績は向上していなかったにもかかわらず、参加者は参加前の自分を、当時つけた評価より低く思い出しました。

射程は狭く取っておきます。対象は特定の講座の参加者であって、あらゆる変化の記述が同じ幅で歪むという主張ではありません。示されたのは、変化を経た人が過去の自分を低く見積もる方向がある、ということです。

基準点をどこに置くかで見え方が変わる構造そのものは、損失回避を煽りに使わないで扱いました。体験談では、この基準点が「当時の自分」として置かれます。

当時、月に三十万円の売上があり、その大半が受注の仕事だったとします。「収入が不安定でした」と書くこともできますし、「一定の仕事はありましたが、途切れたときの代わりがありませんでした」と書くこともできます。当時の状態をより正確に含んでいるのは、後者です。

そして、読み手にとっての効き方が変わります。前者を読んだ読み手のうち、いま月に三十万円ある人は、自分の状態が「不安定」と呼ばれていることに気づきます。後者を読んだ読み手は、自分の状態のどこが問題なのかを判定できます。

変化を強調しないと、伝わらないのではないか。変化の大きさは伝わりにくくなります。代わりに、変化の中身が伝わります。読み手が知りたいのは、どれくらい変わったかよりも、何が変わったかであることが多い。何が変わったかは、前を正確に書かないと示せません。

前が実際に低かった場合は、そう書いて構いません。偏りが問題になるのは、書き手が対比の圧に押されて、実際より低く描く場合です。判別は、当時の記録と照らせば付きます。記録が無い場合は、数字ではなく、当時できていたこととできていなかったことを並べる形が使えます。並べると、対比の圧が働きにくくなります。

ただし、正確さには見た目の損が伴います。前を正確に書けば、変化は小さく見えます。実際に小さかった場合は、それが正確な記述です。小さい変化でも、方向が変わっていれば書く価値があります。方向の変化は量では表せないので、対比の形では示せません。「前は月三十万、いまは月百万」という書き方は量の記述であり、何が変わったかを含んでいないからです。

書いた体験談を、三つの時点で読み返す

書いた体験談が読み手の材料になっているかは、三つの時点で読み返すと分かります。それぞれ見る対象が違い、後の時点になるほど直す費用が上がります。

第一の確認は、書く前です。その体験のどこが、いま同じ位置にいる人にとって見えていない部分か。一文で書けるかどうかを見ます。書けないなら、材料はまだ揃っていません。この段で止めれば、費用は考えた時間だけで済みます。

第二の確認は、場面を書いている最中です。「失敗した」「間違っていた」「気づいていなかった」という語が場面の中にあれば、そこは後からの視点で書かれています。冒頭や末尾に置く分には構いません。場面の中にあると、当時の視界がその段落から消えています。

第三の確認は、書き終えた後です。その体験から取り出せる構造を一文で書き、その体験が成立した条件を三つ挙げます。構造が書けないなら、渡しているのは出来事だけです。条件が挙げられないなら、読み手は自分に当てはまるかを判定できません。

三つとも、読みやすさや感動の量を見ていません。それらは受け取られ方の指標であって、材料になっているかとは別の軸だからです。

三つが手を出せない判定も一つあります。どれも、その体験が読み手にとって新しいかを判定しません。当時の視点で書かれ、構造が取り出せて、条件も書かれていて、それでも既知である、という体験談は成立します。この判定ができるのは第一の時点だけで、書き上げた後の原稿からは出てきません。

長さも、失敗の数も、感情の分量も、ここでは決めません。目安を渡すことは、その体験の中身を見ずに配分を決めることになります。そして配分を決める視点は、結論を知っている側にしか立てません。当時の位置に戻るという作業と、その視点は両立しません。

一つ目の文と二つ目の文の差は、文章力ではありませんでした。書き手がどこに立っているか、それだけでした。型が結論を先に要求すること。主題に据えた体験が括られないまま残ること。一件の体験が存在しか示せないこと。この三つを貫いているのは、書き手が既に結論を知っている、という一つの事実です。

決められるのは、書く前の一点です。その体験のどこが、いま同じ位置にいる人にはまだ見えていないのか。ここが特定できていれば、当時の視点で書くことも、括ることも、条件を書き出すことも、後から効いてきます。特定できていないまま書き始めた原稿は、どれだけ直しても要約に戻ります。

体験を一次情報として扱うときの規律は一次情報の書き方で、読み手の記憶へ橋を架ける方法は例え話の技術で扱っています。他人の体験を素材として扱う場合は、顧客の声が隣に当たります。特定できていないまま書き始めた原稿が要約へ戻るのは、文章の技術が足りないからではありません。言語化ができないことを能力の不足として説明してきた見方を、どこで外すのかは言語化とは何かが扱っています。

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